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立憲君主制がファシズムの台頭を防ぐ?

ドイツを立憲君主制にしておけばナチス台頭を防げたという説には根拠がない

東京新聞の「私説 論説室から」(5/27)にこんな話が載っていたのには驚いた。

プロイセンの君主制

 連載社説「天皇と憲法」で取材した君塚直隆・関東学院大教授は、立憲君主制が独裁者の出現を妨げる、と指摘する。プロイセン帝国崩壊後、ナチスが台頭した経緯は連載で紹介した通りだ。

(略)

 専制のイメージが強いプロイセンだが、治下ではベルリン大学が創設され、哲学者ヘーゲルの講義が評判を呼び欧州思想界に影響を広げた。新王宮内に設ける文化施設には、当時、海外に目を向けた言語学者、地理学者のフンボルト兄弟の名を冠するという。プロイセンの記憶は暗黒ではない。

 これに対し、プロイセン崩壊後もたらされたナチス、共産主義の独裁時代は忌み嫌われている。共通するのが不寛容なイデオロギーの押しつけ。民主主義と共存し得る君主制と決定的に違う点だ。(熊倉逸男)

立憲君主制がファシズムなど独裁的政治体制の台頭を防ぐ、というのが、君塚教授の持論のようだ。その著書『立憲君主制の現在』では次のように書いている。[1]

 (略)ならば共和制を採る国はすべて民主主義的なのか。第二次世界大戦後にアメリカと並ぶ超大国となり仰せたのは、ソヴィエト社会主義「共和国」連邦であった。しかしそれはすべての市民が平等な国どころか、共産党一党独裁の下で言論の自由は奪われ、党幹部たちが利権を独占する体制であった。ソ連は1989~91年の一連の市民運動で動揺をきたし、その衛星国として同じく共産党独裁体制下に置かれていた東ヨーロッパの「共和制」諸国とともに、倒壊の道をたどったのである。

(略)

 国際通貨基金(IMF)が発表する2015年度の「国民一人あたりの国内総生産(GDP)」のランキングで上位30位に入る国のうち、第1位のルクセンブルク大公国を筆頭に実に13ヵ国が君主制を採り、英連邦王国(オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、バハマ)も含めれば、その数は17ヵ国にも及んでいる。さらに、第二次大戦後に世界的に注目されるようになった、「社会福祉の充実」という点から考えてみても、その先進国はスウェーデン、ノルウェー、デンマークといった、いずれも北ヨーロッパの君主国なのである。

 国民統治の面でも、君主制が共和制に劣っているとはあながち言えないのかもしれない。第二次世界大戦の末期。ドイツはすでに降伏し、残す敵国は日本のみとなった1945年7月、ドイツの戦後処理問題などを話し合うために、連合国の首脳たちはベルリン郊外のポツダムに集まっていた。その席でアメリカの海軍長官ジェームズ・フォレスタル(1892~1949)は、イギリス外相アーネスト・べヴィン(1881~1951)から驚愕するような発言を聴いた。フォレスタルは、いまや風前の灯火となった日本の「天皇制」を廃止すべきか否かについてべヴィンに尋ねた。慎重なべヴィンは、この問題は十分に検討する時間が必要であると答えながらも、断固たる口調で次のように語ったとされる。「先の世界大戦[第一次大戦]後に、ドイツ皇帝の体制を崩壊させなかったほうが、われわれにとってはよかったと思う。ドイツ人を立憲君主制の方向に指導したほうがずっとよかったのだ。彼らから象徴を奪い去ってしまったがために、ヒトラーのような男をのさばらせる心理的門戸を開いてしまったのであるから」

 ベヴィンは「労働党」の政治家であり、極貧生活の中からはい上がり、労働組合の指導者にもなった社会主義者である。ある意味では、H・G・ウェルズ以上に「反君主制」を唱えていてもおかしくない彼がこのように断言したことに、フォレスタルは驚嘆したのだった。このベヴィンの発言どおり、戦後の日本には、天皇を象徴とする新たな国家が形成され、今日に至っている。20世紀を代表するイギリスの政治家ベヴィンをして、戦後日本の安全弁のように言わしめた、「立憲君主制」とは果たしてどのようなものなのであろうか。

君塚教授はこう言うが、そもそも各国がそれぞれ独自の歴史的経緯を経てたどり着いた固有の政治体制を「共和制」「君主制」に二分して、どちらが民主的であるとかないとか言うこと自体が乱暴に過ぎる。また、第一次大戦後のドイツでナチスが台頭したのは、ベルサイユ条約で多くの領土を奪われ莫大な賠償金を課された屈辱への国民の復讐心と、それを煽り立てるヒトラーのような男を「コントロールできる」と考えた当時の権力者たち(ヒンデンブルク大統領ほか)の愚かさのせいだろう。ドイツ皇帝を象徴的君主として残しておけばこれが防げたとする主張には根拠がない。それに、ドイツの帝制は大戦末期のドイツ革命によりドイツ人自身の手で廃絶されたのであって、戦勝国が廃止させたのではない。

だいたい、ヒトラーと並ぶ独裁者で「ファシズム」の語源であるファシスト党を率いたムッソリーニが台頭した当時のイタリアは、代表民主制、権力の分立、国民の権利保障等を定めたアルベルト憲法[2]を持つ立憲君主国(イタリア王国)だったではないか。

このようにアルベルト憲法は,規定上は君主制を基本としたが,しかし実際には,議会による政府が国政の中心的役割を担った。すなわち政治的決定権限は,国王から政府に移り,政府は支持政党の多数党との協力により営まれていた。アルベルト憲法は,君主制を基礎に置き,当初は寡頭政治の一面を有したが,後には選挙制度を拡充するなど,自由主義的・民主主義的側面をも有していた。

北欧諸国が今でも王国なのは国王自身がファシズムと闘ったから

社会民主主義的福祉国家として知られる北欧諸国の多くが現在も王制を残している(フィンランドは共和国)のは事実だが、例えばデンマークやノルウェーでそうなっている理由は、君塚氏自身が書いているように、ナチスドイツによる侵略・占領に国王自身が断固として抵抗し、ファシズムに反対する国民の象徴となったからだ。[3]

 デンマーク国民にとって「ナチスへの抵抗」の象徴となっていたのが、ほかならぬ老国王クリスチャン10世であった。国王は占領の翌日からコペンハーゲンの町を毎朝馬で散策した。乗馬はそれまでの日課でもあったが、ドイツ軍の兵士たちが見守るなか、護衛もつけずに一人で愛馬と散策する国王の姿は、ドイツに対する無言の抵抗と国民の目には映っていた。事実、ドイツ兵が彼に敬礼しても国王はいっさい無視し、普通に挨拶してくる一般市民にはいつものとおり優しく言葉をかけるのであった。

(略)

(略)それでも国王の気骨はへこまなかった。デンマーク在住のユダヤ人に「ダビデの星」をつけるようにとの要求にも断固反対した。国王は「デンマーク国民であるユダヤ人」にはナチスに指一本触れさせなかった。こうした国王の態度と自由評議会などの支援もあって、ドイツ占領下にあった諸国のなかでデンマークのユダヤ人たちは98%がホロコーストを逃れることができたとされる。(略)

(略)

 1940年4月9日の早朝、ドイツ軍はノルウェーの首都オスロや西海岸六カ所を同時に急襲した。(略)ノルウェー軍による徹底抗戦は各地で続いた。しかしドイツ軍による猛攻に耐えられず、2ヶ月後の6月7日に国王は皇太子、政府閣僚らとともに国外への脱出を決定した。

 6月10日にホーコン(注:国王)とオーラヴ(注:皇太子)はロンドンのユーストン駅に降り立った。(略)それからの5年間にわたりホーコンはイギリスでの亡命生活に入る。ロンドンに借りた事務所では、毎日のように皇太子や閣僚たちと協議を行い、連合軍から得た情報をもとに祖国の解放に尽力した。

 また国王は、BBC(英国放送協会)のラジオを通じて、ノルウェーの国民に希望を捨てないように訴え続けた。ロンドンでは「自由ノルウェー」という抵抗組織を立ち上げ、「すべてをノルウェーのために(All for Norway)」を標語に、国王は寝る間も惜しんで活動を続けた。そしてついに待望の時が訪れた。1945年5月8日にドイツが降伏した。(略)亡命からちょうど5周年にあたる6月7日に、72歳の老国王ホーコンが祖国の土を踏んだ。(略)宮殿へと向かう国王の乗る馬車を、歓喜する大勢の国民が取り囲んだ。宮殿前には13万人以上の市民が集まり、ここにノルウェーは解放されたのである。

 ナチスによる占領後も祖国デンマークにとどまって抵抗の意志を貫いた兄クリスチャンと同様に、亡命後もラジオを通じて国民に語り続けたホーコンは、ノルウェー国民にとって「ナチへの抵抗と祖国解放の希望」の象徴となり続けていた。

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これらの国王がナチスドイツに迎合するような態度を取っていたら、戦後、王制はもちろん廃止されていただろう。問題は君主制か共和制か、などではないのだ。

天皇制擁護論に賛成の余地はない

君塚教授はこうした立憲君主制の「効能」を並べることで象徴天皇制をも民主主義の維持発展に必要な制度として位置づけたいのだろうが、身を挺してファシズムに抵抗した王たちの君主制と、それ自体が天皇制ファシズムという怪物を生み出した絶対主義的天皇制の残滓と言える日本の象徴天皇制を同列に並べることはできない。

こうした一見マイルドな天皇制擁護論にも、断じて反対だ。

[1] 君塚直隆 『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 新潮選書 2018年 P.6-8
[2] 椎名規子 『イタリア憲法の家族条項および国家と家族の関係についての家族法的考察(2)』 専修大学法学論集 第96号(2006年3月)P.146
[3] 君塚 P.150-161

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