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尖閣が「日本固有の領土」とは何かの冗談か?

「歩く人権侵害」こと石原慎太郎がまたバカなことを言い出したおかげで、尖閣諸島に再び注目が集まっている。

「尖閣諸島」とは、沖縄の石垣島と台湾とのほぼ中間に位置する、一群の無人島および岩礁の総称であり、日本が実効支配しているものの、中国と台湾も領有権を主張している係争地域である。

ところがこの国では、歴代政府はもとより、マスコミから共産党に至るまで、尖閣諸島を「日本固有の領土」だと主張して疑うことがない。

外務省 尖閣諸島に関するQ&A

Q1 尖閣諸島についての日本政府の基本的な立場はどのようなものですか。

 

A1 尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかであり,現に我が国はこれを有効に支配しています。したがって,尖閣諸島をめぐって解決しなければならない領有権の問題はそもそも存在しません。

現に複数国家が領有権を主張している係争地域について、問題の存在そのものを認めない態度が危険なものであることは言うまでもない。そのような硬直的な態度は自らの手を縛り、行動の選択肢を狭めることになるからだ。

では、彼らが尖閣を「日本固有の領土」とする根拠は何なのか?

外務省 尖閣諸島に関するQ&A

Q2 尖閣諸島に対する日本政府の領有権の根拠は何ですか。

A2

  1. 尖閣諸島は,1885年から日本政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行い,単に尖閣諸島が無人島であるだけでなく,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で,1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行って,正式に日本の領土に編入しました。この行為は,国際法上,正当に領有権を取得するためのやり方に合致しています(先占の法理)。

しんぶん赤旗(2010/10/5)

 尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られており、中国の明代や清代の文献に登場する。(略)近代にいたるまで尖閣諸島は、いずれの国の領有にも属せず、いずれの国の支配も及んでいない、国際法でいうところの「無主の地」であった。
(略)

 「無主の地」の尖閣諸島を1884年(明治17年)に探検したのは日本人古賀辰四郎だった。古賀氏は翌85年に同島の貸与願いを申請した。同島でアホウドリの羽毛の採取などが試みられ、周辺の海域で漁業をおこなう漁民の数も増えるなか、沖縄県知事は実地調査をおこなうこととし、尖閣諸島が日本の領土であることを示す国標を建てるべきかどうかについて、政府に上申書を提出する。政府内での検討の結果は、国標を建てて開拓にあたるのは他日の機会に譲る、というものだった(『日本外交文書』第二三巻)。

 日本政府はその後、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで、1895年1月14日の閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為である。これは、「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で正当と認められている領土取得の権原のひとつである。

他にも理由はいくつか挙げられているが、いずれも副次的・派生的なものであり、根本となる根拠はこれだ。

では、彼らのこの主張は正当と言えるものなのか?

それを検証するヒントは、実は上記の引用部分の中に既に含まれている。

沖縄県当局が尖閣諸島の領土編入について上申書を出したのが1885年、しかし領有の閣議決定がなされたのは1895年。その間、10年もかかっている。しかも、「政府内での検討の結果」、一度は諦めているのだ。それはなぜなのか、がポイントだ。

伊藤成彦・中央大名誉教授が、『マスコミ市民』2010年11月、12月号に詳しい解説を書かれている[1][2]ので、それに沿って見ていこう。

まず、1885年9月に沖縄県令が内務省に送った上申書。

抑も久米赤島、久場島及び魚釣島は、古来本県に於て称する所の名にして、しかも本県所轄の久米、宮古、八重山等の群島に接近したる無人の島嶼に付、沖縄県下に属せらるるも、敢て故障これ有る間敷と存ぜられ候へども、過日御届け及び候大東島(本県と小笠原島の間にあり)とは地勢相違し、中山博信録に記載せる魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一なるものにこれ無きやの疑いなき能はず。果して同一なるときは、既に清国も旧中山王を冊封する使船の詳悉せるのみならず、それぞれ名称をも付し、琉球航海の目標と為せしこと明らかなり。依って今回の大東島同様、踏査直ちに国標取建て候も如何と懸念仕候間、来る十月中旬、両先島(宮古、八重山)へ向け出帆の雇ひ汽船出雲丸の帰便を以て、取り敢へず実地踏査、お届けに及ぶべく候条、国標取建等の儀、なほ御指揮を請けたく、此段兼て申上候也

  明治十八年九月二十二日 沖縄県令 西村捨三

  内務卿伯爵 山県有朋殿

尖閣諸島は大東島などとは違い、清国も熟知していて名前も与えている島々であるため、領有宣言などすると紛争が起こるのではないかと危惧している。

この上申を受けた内務卿山県有朋は外務卿井上薫に相談、井上は翌10月、次のような意見書を山県に送った。

沖縄県と清国福州との間に散在せる無人島、久米赤島他二島、沖縄県に於て実地踏査の上国標建設の儀、本月九日付甲八十三号を以て御協議の趣、熟考致し候処、右島嶼への儀は清国福国境にも接近致候。さきに踏査を遂げ候大東島に比すれば、周囲も小さき趣に相見へ、殊に清国には其島名を附しこれ有り候に就ては、近時、清国新聞紙等にも、我政府に於て台湾近傍清国処置の島嶼を占拠せし等の風説を掲載し、我国に対してさいぎ抱き、しきりに情政府の注意を促がし候ものこれ有る際に付、此際にわかに公然国標を建設する等の処置これ有り候ては清国の疑惑を招き候間、さしむき実地を踏査せしめ、港湾の形状並びに土地物産開拓見込みの有無を詳細報告せしむるのみに止め、国標を建て開拓等に着手するは、他日の機会に譲り候方然るべしと存じ候。

 且つさきに踏査せし大東島の事並に今回踏査の事とも、官報並に新聞紙に掲載相成らざる方、然るべしと存じ候間、それぞれ御注意相成り置き候様致したく候。右回答かたがた拙官意見申進ぜ候也。

やはり清国との関係を懸念し、少なくとも当面、公然と国標を建てるのは避けるべきと意見している。その上ご丁寧に、調査はバレないようこっそりやれ、とまでアドバイスしているのだ。

この意見書を受けて、山県も領土編入は見合わせることにした。

秘題128号の内

 無人島へ国標建設の儀に付内申

 沖縄県と清国福州との間に散在せる魚釣島他二島、踏査の儀に付、別紙写の道同県令より上申候。処国標建設の儀は清国に交渉し彼是都合も有之候に付、目下見合せ候。方可然と相考候間、外務卿と協議の上、其旨同県へ致指令候。條是段及び内申候也。

 明治十八年十二月五日

  内務卿伯爵 山県有朋

  太政大臣公爵 三条実美殿

尖閣諸島の領有が、外務省や共産党の言うように単なる無主の地の先占であるというのなら、この1885年の時点でできていたはずなのだ。それができなかったこと自体、彼らの主張に十分な正当性がないことを示している。

 尖閣諸島の取扱に関する1885(明治18)年12月5日の以上の明治政府の決定は極めて重要なのだが、去る9月7日に「尖閣諸島問題」が起きて以来、菅直人内閣もマスコミも、この事実に全く触れていない。

 それどころか、「尖閣諸島〈日中の火種〉」という記事を掲載した『東京新聞』(11月8日7面)は、「尖閣諸島をめぐる経過」と題した年表を掲げ、その1885年の項に、「沖縄県庁の石沢兵吾が当時の県令に尖閣諸島が無人島であることを報告。この後、福岡県の実業家、古賀辰四郎がアホウドリ猟のため尖閣諸島の借地権契約を明治政府に請求。古賀による開拓が本格化し、かつお節工場や船着場が建設される」と書いてある。この記事は明瞭な史実の歪曲で、枝葉末節だけを書いて重要な事実がすべて抜けている。

 「福岡県の実業家、古賀辰四郎がアホウドリ猟のため尖閣諸島の借地権契約」を沖縄県庁に要求したことから明治政府の検討が始まり、私が今述べた経過で、古賀辰四郎の請求は退けられたのである。しかもその過程で極めて重要な西村捨三沖縄県令の明治政府への報告書や井上外務卿の意見書と、それらに基づく山県有朋・内務卿の「領有せず」の決定への言及が全くない。これでは「史実の歪曲」と言う他はない。

それでは、なぜ10年後の1895年には一転して領土編入が決定されたのか。それは日清戦争の結果にほかならない。

日清戦争の経過については煩雑になるので省略するが、この戦争はもともと日本との戦争など予期していなかった清国軍(東学党の蜂起により危機に陥った朝鮮政府からの支援要請を受けて朝鮮半島に来ていた)に対して日本側が一方的に仕掛けたこと、清国に対して宣戦を布告する(1984年8月1日)以前に、既に陸海で清国軍を攻撃して戦端を開いていたことだけは指摘しておく。

 こうして日清戦争が大詰めを迎え、日本軍の勝利がだれの目にも明らかになった1895(明治28)年1月12日に、内務大臣子爵野村靖から内閣総理大臣伯爵伊藤博文に当てて、次の秘密文書が届けられた。

 標杭建設に関する件

 沖縄県下八重山群の北西に位する久場島、魚釣島は、従来無人島なれども、近来に至り該島へ向け漁業等を試むる者有之。之れか取締を要するを以て同県の所轄とし標杭建設致度旨、同県知事より上申有之。右は同県の所轄と認むるに依り上申の通り標杭を建設せしめんとす。右閣議を請う。

 明治二十八年一月十二日  内務大臣子爵 野村靖

 その2日後の1月14日に、「標杭建設を閣議決定」として次の通知が内務大臣に出された。

 別紙内務大臣請議、沖縄県下八重山群の北西に位する久場島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為め取締を要するに付ては同島の議は沖縄県の所轄と認むるを以て、標杭建設の儀命県知事、上申の通許可すべしとの件は、別に差支無之に付請議の通にて従るべし。

日清戦争の結果、清国は下関条約(1895年4月17日)で尖閣どころか遼東半島、台湾、澎湖島を奪われ(遼東半島はその後の「三国干渉」により返還)、賠償金2億テール(当時の日本の国家予算の4倍強)を支払わされるなど、膨大な損害を被ることになる。

明治政府は、敗戦で弱り切った清国にはもはや抗議する力も余裕もないことを見越して、10年前にはできなかった尖閣諸島の領土編入をさっさと行ったのである。

とんだ「固有の領土」もあったものだ。

 

[1] 伊藤成彦 『東アジア平和共同体をどのように創るか 尖闇諸島をめぐる紛争の経験から』 月刊マスコミ市民 2010年11月号

[2] 伊藤成彦 『「日本国家主義」の克服を 尖閣諸島問題再論』 月刊マスコミ市民 2010年12月号

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