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ではそろそろ「君が代」が果たしてきたおぞましい役割を具体的に

 

関連記事: 「君が代」とはどういう歌か

 

上記記事へのコメント

Jackopoid 2014/01/16 11:44

「おぞましい役割」とは何ぞや。言を濁さず忌憚なく述べたまえ。

 

こういう要望もあるので、具体的に述べていくことにしよう。

 

「君が代」が国民に天皇崇拝意識を刷り込むための道具として徹底的に利用されたことは、上記記事でも説明した。

では、その結果としてどんなことが起こったか。

 

たとえば1945年3月10日、東京大空襲での出来事。[1][2]

 

 10日零時8分、一番機は探川区(江東区)木場二丁目、白河町に焼夷弾を投下、強風にあおられた火災は爆撃目標の中心を明示した。

 零時10分、城東区北砂町が火災につつまれた。零時12分、本所方面に焼夷弾が豪雨の如くそそぎ、下町一帯が火の海となった。まだ空襲警報のサイレンは鳴らない。

 つづいて隅田川をこえた日本橋、本郷にも火の手があがった。

 第一弾投下から7分遅れて零時15分、空襲警報のサイレンが鳴った。この時、すでに空は火災と火事嵐に赤く焼きただれ、人びとは逃げ場を失っていた。

 第20航空軍司令官カーチス・E・ルメイ少将の超低空絨毯爆撃・皆殺し作戦は、2時間30分の猛爆によって、都民10万人を殺戮、下町をすベて焼きつくした。

 死体が集中して多かったのが、浅草の言問橋であった。浅草方面から隅田川方向へ逃げてきた群衆と本所方面から逃げてきた群衆が、死体の山をピラミッド型に形づくる悲惨なものであった。

 次に大量死したのが、明治座である。黒焦げの炭化した死体、蝋人形のように窒息した死体約3000人を数えた。

 明治座のすぐ先に浜町公園があるが、高射砲陣地で立ち入り禁止になっていたので、明治座が避難所に指定されていた。矢野正(当時20歳)と矢野潔(当時20歳)は明治座の地下室ヘ逃げ込んだ。しかし、煙が激しく吹きこみ息もできない。外ヘ逃げだした人たちは、一瞬にして火につつまれ、火柱となった。

 二人は壁づたいに火をさけ、明治座の前の防空壕に逃げこんだ。「その時、防空壕のなかで聞いた。燃え始め、激しい炎を吹きはじめている明治座の屋上から「君が代」の大合唱が聞こえてきたのです。はっきりと、今も耳に残っています。……」(東京大空襲・戦災誌・2)

 一階から二階へと逃げた人びとは、明治座の屋上へ追いつめられ、「君が代」を絶唱して焼死した。

 日本の敗戦は半年以上前にわかっていた。高松宮、近衛文麿が、敗戦必至と天皇に進言したにもかかわらず、国体護持・天皇の位を守るために戦争はつづけられた。明治座に逃げた約3000人の人びとは、こうした事実を知らないまま「君が代」を絶唱しつつ焼き殺された。

 空襲警報発令から警報が解除される3時20分まで、天皇裕仁は吹上御苑のお文庫の地下二階に避難していた。お文庫とは地上一階、地下二階の防空豪邸である。建坪は1320平方メートル。コンクリートと砂を何重にも積み重ね、 6トン爆弾にも耐えられるものであった。地下一、二階には、 毒ガスを防ぐ空気浄化装置、 脱湿機、調理室等が完備、天皇はソファに座って、爆撃状況の報告を聞いていた。

 

3月18日、天皇裕仁は東京大空襲の焼け跡を視察した。

深川では、死体が天皇の目に触れないよう、急遽大きな穴を掘り、大量の死体をここに投げ込んだという。

 

広島に原爆が落とされたときも、同じようなことが起こった。[1]

 

 「広島市立第一高女の生徒44名は、材木町の建物疎開に動員され、そこで被爆し、即死した生徒以外は教師に運れられて、水を求めて元安川に飛び込み、『天皇陛下万歳』を三唱し、『君が代』を歌いながら死んでいった

 「また義勇隊や女生徒らと共に中島新町の本川ヘ飛び込んで水死した県立広島二中の一年生32O人も、死の間際「海ゆかば」を川の中で歌い、最後に「天皇陛下万歳」を唱えた。戦闘死でない彼らが爆弾(もちろん子どもたちは原爆とは知らなかった)によって死んでいくにも天皇の名を叫んだ。人間の生死は個人的なものである。生の最期の瞬間まで天皇が「介入」していたのは、この国の人びとがどれほど天皇によって個を支配されたかを物語っている。

 しかし、「天皇陛下万歳」を叫んだ人はだれ一人として、実は、この爆弾は天皇以下、支配者の完壁なサボタージュによって導かれたことを知らなかった。「ドキュメント昭和天皇」(田中伸尚・緑風出版)のなかで、「君が代と原爆死」について極めて鋭く指捕している。

 教師と生徒が共に唱和したことが注目される。教師も天皇中心の皇民教育を日常実践していた。その結果の死として当然のことと君が代・海ゆかぱ・天皇陛下万歳で、生が断ち切られる瞬間を締めくくったのだ。

 当時を顧みれば、皇民教育・君が代教育に反対した批判的な教師は、首を切られるか、逮捕されるか、懲罰召集でもっとも危険で戦死の可能性の高い最前線に送り出された。

 こうした事実、 君が代をめぐるいくつかの出来事を冷静に検証してみれぱ、君が代と国民主権主義とは相反することは一目瞭然である。

 

戦前戦中の日本が推進した天皇崇拝の刷り込みは、何も考えず、何も疑問を持たず、ひたすら国家権力に従順に従い続ける臣民(天皇の赤子)を作り出すことが目的だった。

「君が代」はその目的達成の手段として、人間の命を、その死の瞬間まで権力に回収し続けるための道具として、実に効果的に利用されたのだ。

 

[1] 石上正夫 『「君が代」強要はNO (下)』 月刊マスコミ市民 2005年1月号

[2] 東京空襲犠牲者遺族会 「惨禍の記憶 ― 画像による東京大空襲 ―