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「重度障害者を死なせることは決して悪いことではない」と嘯く自称「愛国者」たち

障がい者大量殺傷事件が暴露した自称愛国者たちの本音

今回の障がい者大量殺傷事件は、図らずも《安倍支持者=ネトウヨ・ネトサポ=自称愛国者=自称「普通の日本人」》たちの本音をあぶり出す試薬のような役割を果たす結果となった。

彼らの多くが、「障がい者は殺せ」という、この容疑者の主張に理解を示しているのだ。その典型的な例が、「自民党ネットサポーターズクラブ会員として愛国という視点から自らの意見を論理的に述べるブログ」だという某ブログに載った次の記事だろう。

重度障害者を死なせることは決して悪いことではない

(略)

 植松は「障害者なんていなくなってしまえ」と供述しているという。あまりにも卑劣な犯行でさっさと死刑にするのが一番であるが、植松の言葉自体には実は聞く価値のある部分もある。それは「障害者は邪魔である」という観点だ。この施設には知的障害のある人たちがたくさんいたのだ。

 考えてみてほしい。知的障害者を生かしていて何の得があるか?まともな仕事もできない、そもそも自分だけで生活することができない。もちろん愛国者であるはずがない。日本が普通の国になったとしても敵と戦うことができるわけがない。せいぜい自爆テロ要員としてしか使えないのではないだろうか?つまり平時においては金食い虫である。

 この施設では149人の障害者に対し、職員が164人もいる。これではいくら職員を薄給でき使わせたところで採算が取れるはずもない。そんな状況では国民の税金が無駄に使われるのがオチである。無駄な福祉費を使わなくて済ませることが国家に対する重大な貢献となる。だからこそ植松が言うように障害者はいなくなるべきなのである。

 おりしも都知事選が行われているが、万が一鳥越俊太郎が都知事になったら大変だ。鳥越の福祉政策は私たち愛国者の理想とは180°違うからだ。日本を良くするためにも鳥越を都知事にしてはいけない。今回の件でいかに重度障害者の現実が大変であるかわかるだろう。少しでも負担を少なくするためにも正しい政策を実行しなければいけない。そしてそれに逆行する政治家は正義の鉄槌を下さなければならない。

「無駄な福祉費」を削り、障がい者に一切税金を使わなくなれば、その多くは追い詰められた家族に介護殺人や無理心中という形で殺されるか、あるいは餓死することになるだろう。この記事の筆者は、そうするのが「正しい政策」なのだと言いつつ、障がい者を刺殺した容疑者の行為は「あまりにも卑劣な犯行でさっさと死刑にするのが一番」だと言う。ネトウヨの「論理」とは、まあこの程度のものだ。

もう一点指摘しておくと、日本の障がい者福祉予算はGDP比でOECD加盟国平均の半分程度(約0.2%)と低く、年に1.1兆円程度(2011年)でしかない。一方、安倍政権は人気取りの株価維持目的で株式市場に年金積立金を投入し、昨年度の1年間だけで5.3兆円もの損失を出した。今年度の損失額は既にこれを上回っているだろう。しかし、自称愛国者たちからは、莫大な額の公共財産を無駄に溶かした安倍やGPIF幹部を殺せといった声は、なぜか少しも聞こえてこない。

上の記事の筆者は何か書いていないかと見てみたら、なんと「5兆円損失はデマだ、なぜなら報道しているのが朝日新聞だからだ」という、斜め上すぎる主張をしていた。繰り返しになるが、ネトウヨの「論理」とは、まあこの程度のものだ。

■なぜ障がい者を殺してはならないか

それはもちろん、相手に障がいがあろうがなかろうが、人間に他者の「命の価値」を選別して抹殺する権利などないからだが、民を自分の利益に奉仕させるための道具としか見ない支配層の意識を(支配される側のくせに)内面化してしまっている自称愛国者たちには、そんな当然の道理も理解できないのだろう。

そこでここでは、少し違う方向からの説明を試みることにする。

自身も全盲と全ろうの重複障害を持つ障がい者である福島智氏(東大先端科学技術研究センター教授)は、次のように述べている。(毎日新聞 7/28

 被害者たちのほとんどは、容疑者の凶行から自分の身を守る「心身の能力」が制約された重度障害者たちだ。こうした無抵抗の重度障害者を殺すということは二重の意味での「殺人」と考える。一つは、人間の肉体的生命を奪う「生物学的殺人」。もう一つは、人間の尊厳や生存の意味そのものを、優生思想によって否定する「実存的殺人」である。

(略)

 こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、今の日本を覆う「新自由主義的な人間観」と無縁ではないだろう。労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。

 しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。つまり、ごく一握りの「勝者」「強者」だけが報われる社会だ。すでに、日本も世界も事実上その傾向にあるのではないか。

 障害者の生存を軽視・否定する思想とは、すなわち障害の有無にかかわらず、すべての人の生存を軽視・否定する思想なのである。私たちの社会の底流に、こうした思想を生み出す要因はないか、真剣に考えたい。

こちらは木村草太氏(憲法学者)の意見。(沖縄タイムス 8/7

 今回の事件から連想すべきは、多くのメディアが指摘するように、ナチス優生学だろう。優生学とは、人間の生を、国家や社会にとって有意義なものとそうでないものに分別し、後者を排除しようとする思想だ。

 米本昌平氏が指摘したように、優生学が厄介なのは、それが不合理な感情論ではなく、合理性を突き詰めた発想である点だ。経済発展や軍事的勝利など、狭い視野に基づく目的を至上命題としたとき、「足手まとい」に見える生はいろいろある。ナチスは、障がい者を「国家の発展のために排除されるべき生」と位置づけ、虐殺したのだ。

(略)

 優生学を克服するには、「そんな発想は不合理だ」と非難するのではなく、その合理性をさらに突き詰めた時の結論と向き合うしかない。

 障がい者を排除すれば、障がい者の支援に充てていた資源を、他の国家的な目標を実現するために使えるだろう。しかし、それを一度許せば、次は、「生産性が低い者」や「自立の気概が弱い者」が排除の対象になる。

 また、どんな人でも、社会全体と緊張関係のある価値や事情を持っているものだ。たばこを吸う人、政府を批判する人なども、社会の足手まといとみなされるだろう。国家の足手まといだからと、誰か1人でも切り捨てを認めたならば、その切り捨ては際限なく拡大し、あらゆる人の生が危機にさらされてしまう。

 だからこそ、「個人の尊重」という価値を、他のあらゆる国家的価値に優先させる必要がある。ドイツではナチスへの反省から、憲法ボン基本法)の冒頭に、「人間の尊厳」が規定されるに至った。日本国憲法も、人権条項の中核として、第13条に「個人の尊重」がうたわれている。

 今回の事件は、私たちの社会が、「個人の尊重」という価値を根付かせることに失敗しているかもしれないことを示唆している。個人の尊重のために、あらゆる努力を尽くさなくてはならない。

福島氏と木村氏が言っているのは、基本的には同じことだ。人間を役に立つものと立たないもの、価値生産能力のあるものとないものとに切り分け、後者を排除(究極的には抹殺)しようとする優生思想は、一度認めてしまえば、際限なくエスカレートしていく。

想像してみればいい。ある日、国家の足手まといになるという理由で、重度障がい者たちの抹殺が決定されたとする。自称愛国者たちは快哉を叫ぶかもしれないが、それで果たして終りになるだろうか?

そんなことをする国家とはどんな代物か。それは、人民を国家への貢献度でランク付けし、全生涯をかけて互いに競争させ、最下位とされた者たちを次々と切り捨てることで、より効率的で強力なものになっていこうとする国家である。だから、障がい者たちの排除が終われば、次は多額の医療費を必要とする難病患者、介護施設でしか生きられない高齢者、長期間生活保護から抜け出せない者、犯罪歴のある者、ギャンブルや投機に失敗して破産した者、コミュニケーション能力が低く職場に迷惑をかける者など、次々と排除の対象が広がっていくことになる。自宅警備員をしながらネットにヘイトを書き散らすことしかできないネトウヨなど、排除の対象とされるまでそう長くはかからないだろう。

そしてもう一つ大切なこと。それは、一般人であるあなたは、決して「誰が生きるに値するか」を決める側にはなれないということだ。それを決めるのは、自分自身では労働などする必要がない者たちである。

自分は果たして最後まで生き残る側にいられるのかどうか、そもそも、そんな者たちの利益のために生産能力をアピールし、弱者を蹴落とす人生が幸せなものなのか、「愛国者」や「普通の日本人」を自称する者たちは一度胸に手を当ててじっくり考えてみてはどうか。

 

ネットと愛国 (講談社+α文庫)

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