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元新米特高警察官の悔恨

戦前戦中の「思想犯」「非国民」取り締まりで暴虐の限りをつくし特高警察。

その特高警察の中でも、課長級以上の特高官僚たちは戦後のほとぼりが冷めると次々と復活し、特高時代のおのれの罪業を反省することもなく、平然と国会議員をはじめ多くの要職を占めた敗戦直後に戦争犯罪の証拠文書類を焼かせた奥野誠亮鹿児島県特高課長の経歴を持つ)もその一人である。

しかし、末端の元特高警察官の中には、贖罪のための活動を続けている人もいる。

中日新聞(2005/8/4):

もの言えぬ時代告発 元特高警官、贖罪の日々
 
 ドラム缶から立ちのぼる熱気が、かげろうのようにゆらめいていた。

 1945(昭和20)年8月15日、日本が負けたあの日の昼下がり。いったいどちらが正しかったのか。大阪・八尾警察署の小さな中庭で、24歳の井形正寿はゆらいでいた。

 井形は新米の特高特別高等警察)警官だった。「反戦」などを口にする“非国民”を取り締まり、国民こぞって戦争へと駆り立てるのが「トッコウ」。

 井形は初め在日朝鮮人を受け持った。近くの高校へ出向き、優秀すぎる在日生徒がいたら成績を落とす。子どもの足をひっぱるのは愉快ではないが「命令」に逆らえるはずもない。

 「書類をぜんぶ焼け」。あの日、玉音放送を耳にした後で、こう命じられた。背の小さいその上司は日ごろ「共産主義者朝鮮人なら殺してもいい」と公言する、ごくふつうの特高警官だった。

 火をたいたドラム缶へ資料を放り込んでいたとき、ふいに手を止めてしまった。目に入ったのは「不穏文書」と呼んでいた反戦投書を撮影したマル秘写真。

 「私は日本が戦争に負けてもよいから、1日も早く戦争がすめばよいと思います」「天皇があるために国民がどれだけ迷惑か」

 ぞくり、とした。手にしているのは「死すら覚悟してものを言った抵抗の証し」。追う側と追われた側。正しかったのはどっちか。気がつくとポケットへねじこんでいた。初めての命令違反。心臓が波打った。

 戦後、井形は投書の主を捜し続けた。特高の記録書からようやく1人の住所をつかんだとき、あの日から30年余がすぎていた。

 その人は獄死していた。ぴんとはねた口ひげが良く似合う頑固そうな男だった。かえってきた遺体には無数のあざがあったという。

 妻は「国賊」のそしりを恐れ、近所や親類にも夫の獄死を隠していた。「どうかそっとしておいてください」と言い、拳をぎゅっと握った。思い知った。「戦争は終わっていない」

 特高が消え、公職追放された後、井形は大阪市内でヤミ屋や不動産業を営み口を糊(のり)してきた。公安調査庁へ再就職の誘いもあったが、お上の仕事にもう魅力は感じなかった。

 今では、語り部として自由にものが言えなかった時代のことを訴えている。「死ぬまでもの言い続けること」。それが井形にとって贖罪(しょくざい)だ。

井形氏は特高と言っても敗戦時点でもまだ新米で、自分で手を下した経験もないので、そもそも謝罪すべき立場にないとも言えるのだが、とにかく彼は真摯な反省を行っている。一方で、「思想犯」たちを殴り殺した実行犯たちや指揮命令者たちはどうか?

NHKの戦争証言アーカイブスで、井形氏の詳しい証言を聞くことができる。以下は、獄死した反戦投書の主の遺族を探し当てたときのもの。

Q:その電話の相手はどなただったんですか。

電話はね、かけた時に、お盆のちょっと前でしたかね、電話かけたら、おばあちゃんいうか。

Q:奥さま。

奥さんがいらっしゃいますかと言ったら、はい私や、私ですと言った。それであなたはなぜ、うちの主人のことを知りたいんだと言ったら、向こうは、あなたはうちの主人を逮捕した人ですかという話が返ってきたんで、いやそうじゃないんだと、そういうね、いろんな手紙を出して、逮捕されたいうことが記録されているもんがあるので電話を入れましたと(略)その人たちの家族が無事にね、もしいらっしゃるのであれば会いたいと思うので、電話を入れたと言ったら、いやうちの主人は死んだと、亡くなられたんですかと言ったら、いや実際は殺されたんです、どこでですかと言ったら、堺の刑務所やと、その時は詳しいことは聞くことはできないから、日にちを改めて、まいります言うことで、お盆に近い日に電話をかけたもんですからね、じゃあお盆の日にね、8月15日の日にお伺いしますということで電話を切ってわかれた。

Q:そして実際に会った時はどうだったんですか。

いやそれは会った時はね、あの息子さんもね、孫の方も立ち会いでね、仏壇にちょっと拝ましてくれいうて、お盆やったからね、そしたら仏壇の上にね、カイゼルひげをね、はやした、亡くなった時は50代のはずですがね、それで立派な方やなあと、思って拝ませて頂いた。ああ。

Q:その時、奥様とはどんなお話をされたんですか。

特高月報に出てる範囲のね、あの分かりやすいね、とやかくまああの持って行ったのを読みあげたら、こんなことでね、殺されなければならなかったんだろうか、どういうことで亡くなられたんかと言ったら、本当は20年の春に刑期が終了するのでね、帰るという便りが前年の19年の末くらいに来てたと、だから帰ってくるとばっかり思ってたのに、その19年の年末ぐらいの時に電話が突然かかってきて、ちょっとこいと言うね。

Q:刑務所に。

刑務所に来いと言う連絡があったので、担当してもらった弁護士さんにね、電話があったので、取るものもとりあえず堺の刑務所へ伺ったと、どういう状況でしたかと言うね、ことを伺ったら、机の上に、丸棺のね、棺桶が1つポツンと乗っておって、ほいで弁護士と棺桶の中見たらね、真っ裸で、入れてあられたと

Q:棺桶の中に入っていたと。

それで弁護士と2人で、覗き込んだらね、体中斑点だらけで、弁護士が、ああやられたなあと言ったとね、自分もふと見たら、体中斑点だらけやったと、ほいで、もう涙も出なかったと、着物の、浴衣の1つでも持って行ってね、着せたかったとね、その直後にもうすぐね、棺桶が別室に運ばれて火葬になったらしいんやね。

Q:反戦の手紙が理由で命を落とす、落とした人がいたっていうことを知って、井形さんもその特高のことをちゃんと伝えなければいけないなと。

そうあの、僕はね、その、私の持っているね、あの文書の中からね、1つだけ分かったんはその方ですわな、本当に自分がいろいろ調べた結果。

Q:差出人がですね。

せやから貴重なことやと思ってんですわ、だから出来るだけこの話をね、語らないかんときは言うわけですよ。自分自身が体験した中で、戦後追跡して行ってね、初めは分からなんだが分かって、その結果は獄中で殺されてたと、最後の結末を聞いて、まあ残念の極みですわね。

 
日本の戦後処理の最大の過ちは、侵略したアジア諸国に謝罪できなかったことと並んで、国内での不当な弾圧犠牲者の名誉回復と真相究明、加害者の糾弾ができなかったことにある。反戦投書ひとつで虐殺された犠牲者の遺族が戦後も「国賊」呼ばわりを怖れて息を潜めていなければならなかったのに、人殺しどもは平然とのさばり続けたのだ。

こんな国に正義などあるはずがない。
 

告発戦後の特高官僚―反動潮流の源泉

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