この10月から始まったNHKの連続テレビ小説「まんぷく」で、主人公福子の恋人立花萬平が憲兵隊に拷問されるシーンが酷すぎるとウヨさんたちが噴き上がっている。
だが、立花萬平のモデルである日清食品の創業者安藤百福が憲兵隊に拷問されたのは、自伝にも書かれている実話である。[1]
国から支給された物資を横流ししている人間がいるというので警察に相談したら、私が憲兵に取り調べを受ける羽目になってしまった。憲兵のK伍長と、横流しした者とが裏でつながっていたらしい。そのことに、後になるまで気が付かなかった。
「よく考えておけ」と放り込まれた留置場には6、7人の男たちが肩を寄せ合っていた。おたがい体を伸ばして寝られないほどの狭さだった。我が家との差は身にこたえた。私に対する暴行も、いつ果てるともなく続いた。
いつの間にか、私を犯人にした自白調書が作られ、判を押せと強要された。罪を認めれば、この責め苦からは解放される。しかし、私は抵抗した。死んでも正義は守りたかった。
(略)
憲兵隊の追及は、私が頑固な分、さらに厳しくなった。どうしたらこの状況から逃れられるのかと考えた。生きるために、そんな食事に耐えたとしても、殴られ続けて死んでしまうかもしれない。私は再び絶食を決意した。なまじ健康なために拷問を受けるより、食べることをやめて病気になる方がよほど心が安らぐだろう、と考えたのである。
(略)
だが、さしもの危機もあっけなく幕を閉じた。同房の一人が「明日シャバに出られる。何か力になることはないか」と言ってくれた。私はこの人に、窮状を昔からの知り合いの井上さんという元陸軍中将に伝えるようにお願いした。翌日にはもう井上さんが現れて、私を憲兵隊の手から救い出してくれた。
45日ぶりで自由な世界に戻ってきた。私は自力で歩けないほど疲れ果てていた。大阪市北区の中央病院で長期の療養生活を余儀なくされた。腹部の痛手は持病となって、後に二度も開腹手術をしなければならないほど尾を引いた。
安藤氏はたまたま軍の偉いさんに知り合いがいたから救出してもらえたわけだが、そうでなければ殺されていた可能性が高い。実際、理不尽な理由で憲兵隊に捕まり、拷問の果てに殺された人などいくらでもいる。
父(97歳)の大学時代の関係者も3名ほど死んでいます。いや殺されています。(その他障害を負った者多数、S事件)当時も拷問は禁止されていたので、やらかした奴らの年金を差し押さえてでも償わせるべきだと今でも父は言っております。なお本人は陸軍砲兵少尉(学徒出陣で)でした。
— Nekomata33 (@Nekomata33) 2018年10月21日
拷問をやったのは特高であって憲兵じゃない、などと言っている者までいるようだが、一般国民を治安警察法や治安維持法で取り締まるのも憲兵の管轄範囲に含まれており、この点では特高と違いはない。特高も憲兵も、いったん目をつけたら何も知らない13歳の少女であろうとボロボロになるまで叩きのめして平然としているような連中であり、だからこそ恐怖の対象だったのだ。[2]
私は何もしていません。ほんとうに何もしとらん。なのに特高は私に「非国民」「国賊」「治安維持法違反」「アカ」「ウジ虫」……と数えきれんほどのレッテルをはった。
当時13歳だった私に、いったい何をやれるというのか。私はものを考える能力もなく、腹を減らして、腹いっぱい食べた夢をみるだけの女の子だった。
(略)
昭和18年、製糸工場で働いていた私はたまたま数冊の本を買った。そのなかに与謝野晶子の『みだれ髪』(歌集)があった。これを寄宿舎の私物検査で特高に知られるところとなった。私はその本のなかにあった晶子の詩「君死にたまふことなかれ」の一節に赤線を引いていた。
(略)
しかし私は、それが「ホッキン(発禁)」という本だとは知らなかったのである。捕まったときは、「ホッキン」とはどんな字を書くのか、それさえも知らなかった。つまり、なあんにも知らん女の子の見本だった。
「オイ、ネエチャン、この本は誰にたのまれたか。相手の名をいえばすぐ帰してやる」と特高はいった。
(略)
「自分の金で買いました。誰にもたのまれん」と答えた瞬間、私の体は何メートルも先にふっとんでいた。それから先はなぐるのけるのといったもんじゃない。生と死のギリギリいっぱいまでやられた。遠くの方で「死んじゃおらんぞ、まだ生きとる、いまのうちに寄宿舎に引き取らせろ」という声が聞こえた。
一カ月後、体が動けるようになったらこんどは憲兵隊へよばれた。同じような責めを受けた。私の体は古ぞうきんのようになった。四つんばいの状態で帰された。
わずかの楽しみで読んだ本が反戦詩だったというだけで特高は私を引きすえて、半殺しにして、おまけに母をも見張った。何がなんだかわからんうちに、私は、「チアンイジホウ」とかいうものでやられ、母は「コクゾク」を生んだ「ゲドウ」だといわれて、どうしようもなかった。
(略)
「チアンイジホウ」ということばも文字も知らぬ私は、あろうことか「茶わんいじほうって何のこと?」と泣いて寄宿舎の寮長に聞いた。そのことばが幼く哀れだと寮長も泣いた。
(略)
あれから37年たって私はいま50歳。しかし、このとしで考えても「なぜ捕まったのか」まだ意味がわからん。二年前に死んだ私の母は、「お前のおかげでひでえめにあった」と最後にいって死んだ。
子供の頃に見た何かの戦争関連展示、憲兵の服を着たマネキンが顔面崩壊してたのを思い出しますね。見に来た爺さんたちがこぞってぶん殴るのであんななってしまったとか。本気で嫌われてたんだなぁとガキながら感じ入ったもんです。
— 雲隠れ才蔵 (@garalia) 2018年10月22日
国内での自国民相手の振る舞いでさえこうなのだから、海外で占領地域の住民相手となれば、「憲兵殿」は底なしの残虐性を発揮した。(特高の活動範囲は国内だけなので、こちらは憲兵の独壇場である。)
またNHK朝ドラに関して憲兵が話題になっているようだが、こういう話がある>
— ekesete1 (@ekesete1) 2018年10月22日
武昌憲兵隊
昭和十六年三月中旬、私は武漢の地を去る事と成った。写真中真ん中の建物は、武昌憲兵隊、その後ろ小道を隔て私の勤務の場所、兵站病院レントゲン室があった。嫌でも聞こえる訊問の大声、悲鳴、水攻め、
死者を甦らせよ、もう一度聞きたい事ありと私に命じる憲兵殿の語気、それは今でも私の悪夢である。この建物にはYMの三角マークと武昌基督教青年会と書いてある。
— ekesete1 (@ekesete1) 2018年10月22日
(麻生徹男「上海より上海へ」 p39)
麻生は九州帝大卒で応召して軍医
もちろんこれは中国だけの話ではない。以下はシンガポール政府の公式出版物『シンガポールの第二次世界大戦の跡』に書かれている憲兵隊関連の内容。「ケンペイタイ」という日本語が今でもそのまま通用しているのだ。[3]
憲兵隊東地区本部 Kenpeitai East District Branch
以前のYMCAビルには憲兵隊すなわち日本軍の軍事警察の東地区本部がおかれた。憲兵隊の任務はすべての抗日分子を選別し鎮圧することであった。憲兵隊は、報酬と特権を与えて、地域内部からスパイをやとった。人々が理由もなく連れ去られ、不信と恐怖が占領時代の生活を支配した。
その建物は―1981年に取り壊されたが―、多くの罪のない市民を取り調べ拷問を加えた場所だった。憲兵隊はその非情な拷問方法のために悪名が高かった。こうした拷問は、憲兵将校が危険分子であると見なした者には誰にでもおこなわれた。拷問の方法には指のつめをはがすことや電気ショック、繰り返される鞭打ちも含まれていた。犠牲者の泣き声や叫び声は、しばしば街頭まで聞こえた。
この建物は、抗日的であると疑われた人たちの刑務所としても使われた。典型的には、囚人は小さい独房に閉じ込められ、動くことなく、完全に沈黙していることを強いられた。乏しい食事しか与えられず、たいていの囚人は数ヵ月で皮層と骨にやせ細った。わずかでも服従しないそぶりを見せると、ひどく叩かれた。捕らえられた者は抗日の仲間の名前を言うように拷問をうけた。名前を言わないとさらにひどい罰が待っていた。囚人がそうした拷問に屈したならば、危険分子として認定された者は誰も死刑か禁固刑を宣告された。
いや、それでも、憲兵にだっていい人はいた?
そりゃ、中にはいい人だっていただろう。同じように、ゲシュタポにもKGBにも紅衛兵にもいい人はいただろうが、だからどうした?ということでしかない。所属する個人に多少の「いい人」がいようがいまいが、組織の本質とは無関係である。
2.26事件の際、首相官邸から危険を犯して岡田啓介首相を救出した憲兵などが引き合いに出されているが、それなら南京大虐殺の暴虐の嵐の中で南京安全区国際委員会の委員長として市民の救出に尽力したジョン・ラーベだって立派なナチス党員(ナチス南京支部副支部長)である。言うまでもなく、立派だったのはラーベ個人であり、「だからナチスだっていいことをした」ことにはならない。
このような、絶対に繰り返してはならない悲惨な現実があったからこそ、日本国憲法には「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と、わざわざ明記してあるのだ(第36条)。脳内ファンタジーに酔いしれて「憲兵が気の毒」などと言っている連中に対しては、「口を開く前に少しは勉強しろ」としか言いようがない。
[1] 私の履歴書復刻版 『終戦――ワナにかけられ拷問 一転、命からがら逃げ切る 日清食品創業者 安藤百福(5)』 日経電子版 2014/4/7
[2] 「赤旗」社会部編 『証言 特高警察』 新日本新書 1981年 P.93-96
[3] 山口剛史 『【紹介】戦後50周年を記念して建てられたシンガポールの戦争記念碑』 戦争責任研究 23(1999年春季)号 P.60-61
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