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南京のプロパガンダ写真とその裏の真実

前回記事で取り上げた、学び舎の教科書を採用した中学校への集団攻撃では、抗議はがきの大部分は「中国での旧日本軍進駐を人々が歓迎する場面とみられる写真を載せた絵はがきに抗議文をあしらった同一のスタイルだった」という[1]。

現物を見ていないので、はがきに使われた写真が具体的にどのようなものかは分からないのだが、ネットで検索すると、それらしい写真を載せて「支那の民衆は日本軍が来ると大歓迎した!」「南京市民たちは日本軍の入城を歓声をもって迎えた!」などと主張する右派サイトが大量にヒットする。

彼らは、虐殺場面の写真に対しては、影の角度がどうの日本兵の服装がこうのと必死で難癖をつけて否定していたはずだが、こうした「歓迎」写真には、「演出じゃないの?」という当然の疑問すら湧かないらしい。猜疑と盲信が簡単に切り替えられる便利な頭を持っているのだろう。

では、以下代表的な写真を例にとって、そこに写っているものとその背後の真相を比較してみよう。

このツイートが載せている写真は、「占拠後の南京」と題して毎日新聞系の「支那事変画報」第15輯(1938年1月11日)に掲載されたものだ。キャプションには、「わが軍から菓子や煙草の配給を受け喜んで日本軍の万歳を叫ぶ南京の避難民」とある。

こちらはその入城式を報じた朝日新聞1937年12月18日付夕刊:

実際にはどうだったのか。入城式についてこんな翼賛記事を書いた朝日新聞の今井正剛記者自身が、戦後になって当時の南京の実情を語っている[2]。

 こうして準備された南京入城式は、なるほど豪華荘厳であったにはちがいないが、奇妙なことにこの“大絵巻”を見物するものといえば、兵隊と同じようなカーキ色の従軍服をきた新聞記者の他は、一般民衆と名のつくものは唯一人もいなかったことである。

 つまり入城式の沿道は、堵列の兵隊のほかは、ネコの子一匹たりとも通行を許さなかったからである。軍司令官閣下に、あるいは畏くも宮殿下のお通りに、万が一にも無礼なことをするフテイの輩がいては一大事、という考えの方が強かったのにちがいない。敵国民の憎悪の瞳をあびることは、皇軍の汚れであるとも思ったのかもしれぬ。歩武堂々たる閲兵の行列の両側に堵列した、部下の騎兵の捧げ銃と頭右いの声の中を静かに進んで行った。そしてそれをとりまくものはうちくだかれた瓦礫と死の空虚とがあるばかりだったのだ。

(略)

 中山門を入ったばかりの所へ、臨時支局を開設していたわれわれは、十五日になって市内もどうやら危険はなくなったというので、朝から三々五々見物に出て行った。

(略)

 メインストリートでは人ッ子一人見かけなかったのに、何とこのあたりは中国人で一ぱいなのだ。老人や女子供ばかりではあるが、どの家の窓からも、不安そうにおびえた瞳が鈴なりになっている。この地区一帯が、難民の集中区になっているのだろう。幾日かぶりでみる民衆の顔である。社会部記者の興味がモクモクと頭をもたげてきた。

(略)

 以前の支局へ入ってゆくと、こゝも二三十人の難民がぎっしりつまっている。中から歓声をあげて飛び出して来たものがあった。支局で雇っていたアマとボーイだった。

「おう無事だったか」

 二階へ上ってソファにひっくり返った。ウトウトと快い眠気がさして、われわれは久しぶりに我が家へ帰った気持の昼寝だった。

「先生、大変です、来て下さい」

 血相を変えたたアマにたたき起された。話をきいてみるとこうだった。

 すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の洋服屋の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人とも兵隊じゃないのだから早く行って助けてやってくれというのだ。アマの後ろには、楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員(現朝日新聞アメリカ総局長)と私はあわでふためいて飛び出した。

 支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。その塀に向って六人ずつの中国人が立つ。二三十歩離れた後ろから、日本兵が小銃の一斉射撃、バッタリと倒れるのを飛びかかっては、背中から銃剣でグサリと止めの一射しである。ウーンと断末魔のうめきが夕陽の丘一ぱいにひびき渡る。次、また六人である。

 つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされてゆくのを、空地にしゃがみ込んだ四五百人の群れが、うつろな眼付でながめている。この放心、この虚無。いったいこれは何か。

 そのまわりを一ぱいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。その顔を一つ一つのぞき込めば、親や、夫や、兄弟や子供たちが、目の前で殺されてゆく恐怖と憎悪とに満ち満ちていたにらがいない。悲鳴や号泣もあげていただろう。しかし、私の耳には何もきこえなかった。パパーンという銃声と、ぎゃあっ、という叫び声が耳一ぱいにひろがり、カアッと斜めにさした夕陽の縞が煉瓦塀を眞紅に染めているのが見えるだけだった。

 傍らに立っている軍曹に私たちは息せき切っていた。
「この中に兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」
 硬直した軍曹の顔を私はにらみつけた。
「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」
「どいつだかわかりますか」
「わかる。女房がいるんだ。呼べば出て来る」

 返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声をあげて女房が呼んだ。

 群衆の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳位の青年が飛び出して来た。
「この二人だ。これは絶対に敗残兵じゃない。朝日の支局へ出入りする洋服屋です。さあ、お前たち、早く帰れ」

 たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群衆を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群衆が殺到した。

「まだやりますか。向うを見たまえ。女たちが一ぱい泣いてるじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」

 私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君とは空地を離れた。何度目かの銃声を背中にききながら。

この空き地での一般市民虐殺シーンは、まるで南京大虐殺祈念館にあったレリーフの場面そのままだ。

ちなみに今井記者は、上の入城式記事についても、実は式典を見て書いたものではなく、前日のうちに予定稿として仕上げてしまったことを告白している。このように、南京関連の翼賛記事は、写真も含め、日本軍に都合のいいストーリーに合わせて書かれたプロパガンダに過ぎなかったのだ。

[1] 「慰安婦言及 灘中など採択学校に大量の抗議はがき」 毎日新聞 2017/8/8
[2] 今井正剛 『南京城内の大量殺人』 特集文藝春秋「私はそこにいた」 1956年12月号 P.155-157

 

南京への道 (朝日文庫)

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南京難民区の百日―虐殺を見た外国人 (岩波現代文庫―学術)

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