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「南京戦当時カメラは高価で兵隊が持てるようなものではなかったから虐殺写真は嘘」という嘘

当時カメラはそんなに高価だったのか?

歴史修正主義者たちは、遠い過去となった当時の生活事情を記憶している人がいなくなっていくのをいいことに、様々な屁理屈をこねて虐殺の事実を否定しようとする。

この話もその一つで、1984年に宮崎県で発見され、朝日新聞で記事となった虐殺体験者の陣中日記を偽物と決めつけるために持ち出されたものだ。小林よしのり『戦争論』のネタ本の一つである『仕組まれた“南京大虐殺”』に出てくる。[1]

 聯隊会の人々は、誰しもがこう思っていた。

 一、虐殺など、聯隊の誰もが見たこともないし、聞いたこともない。したがって、そんな日記などあるわけがない。あるとすれば、後になって誰かが意図的に書いたに違いない。

(略)

 三、それに鉛筆ならいざ知らず、インク書きとは不可解である。当時の万年筆は、インク瓶びんからスポイトでインクを入れるものしかなかったのだが、戦場にそうした道具を持ち歩くことなど考えられない。
 四、ましてカメラなど、戦場に持ち歩くことなどありえない。将校でも、カメラを持っていた者は、聯隊の中に一人もいなかった。この辺のところは、当時の大隊長坂元昵ちかし氏や、中隊長吉川きっかわ正司氏らが確認している。

 今日では、カメラなどはごくありふれた日用品だが、戦前はたいそうな高級品であった。また万年筆とて、高価なものであったが、それを山間の僻地出身の、しかも貧しい青年が持っていたということ自体が、きわめて不自然なのである。

南京戦当時、カメラはそんなに高価なものだったのか?

確かに、戦前には今では考えられないほど高価なカメラも存在した。ドイツ製の最高級機、たとえばエルンスト・ライツ社のライカは1台で家が一軒建つと言われていたし、歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎が購入して周囲に自慢していたというエピソードのあるツァイス・イコン社のコンタフレックス(↓)など、さらにその倍以上の価格だったという。

画像出典:「耳(ミミ)とチャッピの布団」さん

とはいえ、一方ではそれなりの値段で買える普及品もあった。

南京大虐殺紀念館にも展示されている揚子江岸の虐殺死体写真で有名な村瀬守保氏は、自著のあとがきで次のように書いている。[2]

 私は十三人兄弟の六男として、一九〇九年(明治42)十二月に生まれました。(略)

 一九三七年(昭和12)七月に召集されたとき、できるだけ、かさばらないカメラをと、<ベビーパール ヘキサー4.5>を買って、胸のポケットに入れて、出征しました

 いつでも、どこでも、五秒もあればシャッターを押せるのです。

 上海に転戦したとき、外人租界は無傷で、カメラショップもありましたから二眼レフ一台と、現像、焼き付け用品一式を買い入れました。

 私はそれまでの行軍の間に、中隊長をはじめ、中隊じゅうの兵隊の写真をとって、軍務の合い間をみては、焼き付けをして、内地のご家族の方に送って頂きました。

 そのため、私が写真を写すことは、軍務に支障のないかぎり、半ば公認となっていたのです。二年半の従軍期間中に、約三千枚も写したでしょうか。現在でも破棄しなかったネガを七百枚ほど手もとに、保有してあります。

陣中で写真の仕上げ作業をする村瀬氏:[3]

村瀬氏が中国戦線に持参した「ベビーパール」は、六櫻社(現在のコニカミノルタ)製の国産カメラで、価格は当時の普通のサラリーマンの月給の半分程度だったという。これなら、高価ではあっても手の届かない値段ではない。今なら、カメラ好きが奮発して高級デジタル一眼レフを買うような感じだろう。[4]

 今回ご紹介する資料は、今から数十年前、フィルムカメラが一般に普及しはじめた頃の国産カメラです。その名前は「ベビーパール」。六櫻社(小西六本店、後のコニカ)が昭和9(1934)年から第二次世界大戦後の昭和25(1950)年頃まで製造した小型カメラで、ドイツのツァイス・イコン社が昭和7(1932)年に発売開始した「ベビーイコンタ」をモデルに作られたとされています。

 このカメラは、スプリングカメラと呼ばれる折りたたみ式カメラで、本体側面のボタンを押すと、内蔵されたスプリングの力によって前蓋が開き、蛇腹で本体と連結されたレンズボードが撮影位置に自動的にセットされます。レンズは六櫻社自社製のヘキサー(Hexar Ser.)Ⅰ50㎜/F4.5が装着されています。(略)シャッタースピードはB、1/25、1/50、1/100の4段階で、シャッターボタンは無く、レンズ横のレリーズレバーを動かせば何度でもシャッターが切れて露光が可能な機構となっています。ファインダーは本体側面にある折り畳み式の簡素なもので、写る範囲をおおよそ知ることができる程度です。

 使用するフィルムは、120ロールフィルム(ブローニ判)より幅が狭い127ロールフィルム(ベストフィルム)です。このフィルムは、4cm×6.5cm判(ベスト判)で8枚撮りが標準ですが、このカメラではその半分の4cm×3cm判(ベスト半裁判)の画面サイズで16枚撮りとなります。フィルムの巻き上げは、本体側面の薄い円形のノブを手回しするもので、背面の赤い小窓にフィルムの裏紙に書かれた番号が出る仕組みとなっています。(略)

 ピントは目測で調整し、露出計・シャッターボタンもない簡素な構造であるため、撮影は撮影者自身の経験に大きく左右されたようです。しかし、折りたためば10㎝×7.5㎝、厚さ3.4㎝と極めてコンパクトなサイズになり、ポケットにすっと入れて軽快に持ち運びができます。当時の販売価格はよくわかりませんが、25円以上との調査結果もあり、普通のサラリーマンの月給が50円から60円の時代にあっては高級品のひとつであったと思われます。

当時の中国では格安でカメラが買えた

さらに、実はこの頃の中国では、国内と比べ格安でカメラが買えるという特殊事情があった。南京戦直前の1937年11月に召集され、中国各地で軍医として勤務した麻生徹男氏が、最初に上陸した上海について次のように書いている。[5]

 街に出て買物すると、何でも無闇むやみに高い。ただ、安いのはカメラだけ。しかし、それも昔程ではなく、高値と成りつつありと。三日続けてカメラ屋に行ったが、人だかりでとても寄りつけない。軍人がひしめき合って買っている。ここに居ると、戦争がどうなっているのか、分らないような商売繁盛である。

上海では、むしろ軍人が争ってカメラを買っていたわけで、「たいそうな高級品」「将校でも、カメラを持っていた者は、聯隊の中に一人もいなかった」などというのは明らかに嘘だと分かる。

なぜ当時の中国ではカメラが安く買えたのか。その理由も麻生氏が書いている。[5]

千代洋行

 昭和十二年の暮、南京は既に陥落し、当時上海に在った私達は、これで戦争も終った、もうすぐ内地帰還と、凱旋気分に浮々していた。そして何が土産物に相応ふさわしいかと血眼であった。そのためには何と云ってもカメラが第一であり、陸軍武官府経理部に行って、一枚のガリ版刷りの免税用紙を手にすれば、高級カメラが日本内地の三分の一ぐらいの値段で、容易に買い取れた

 従って在上海の部隊長達も、若い連中が金を使って悪い遊びをするより、この方が余程よいと云ってカメラ購入を奨励されていた。然しかしこのカメラ熱も、後程、上海地区警備担当の、東京百一師団が、九州師団と交代した頃で終り、以後はカメラの機種に、身分相応の但書きがつき、私達見習士官では新鋭高級機は及びもつかなくなり、又、免税証の入手も困難に成ってしまった。

 さて上海のカメラ店と言えば、先ず第一に千代洋行で、本店は蘇州河の彼方(川向い)の南京路にあって、日本軍の占領地域外の為、日本軍人は到底行ける所ではなかった。然し私はその年の大晦日、正月に備えて必要な閃光撮影の道具類の購入を命ぜられ、又、部隊副官分部大尉殿の愛用機、私のスーパーイコンタと同一機種に故障が生じたので、どうしても南京路に出かけねばならなかった。

村瀬氏が、日本から持参したベビーパールに加えて上海で二眼レフを買えたのも、この免税特権のおかげだろう。また、一兵卒だった村瀬氏には無理でも、麻生氏のような軍医や大尉クラスであればスーパーイコンタのような高級機でも持てたことが分かる。

中国に残る残虐写真の多くは日本軍将兵が撮影したもの

競ってカメラを買った日本の軍人たちは何を撮影したのか。もちろん普通の記念写真や風景写真、戦友や街角のスナップなども撮っただろうが、中国の戦場でなければ撮影し得ないシーンが格好の撮影対象となっただろうことは容易に想像できる。そして彼らは、そうした場面を撮影したフイルムを、平気で街の写真屋に持ち込んだ。

再び上海での麻生氏の経験談。[6]

 私は応召前「アシヤサロン」なる写真作家集団に属していて、この集団は朝日新聞の後援する全関西写真連盟にも関連していたので、昭和十二年十一月上海上陸に際して、このグループの一人であるその地の田中新一氏を訪れることにした。

(略)

 聞けば田中君は千代洋行の暗室作業をしていられるので呉淞ウースン路の同店に行けば分るとのこと。そして行って見ると店の前と後は兵隊の黒山である。カメラ漁あさりの群集の他に、店の裏にある風呂屋に集る内地や北支から転進して来た兵たちで一ぱい。(略)

 この一角のアパートの一階の住宅が、田中君の作業場で、大きな木製の風呂桶が、定着タンクになって沢山のフィルムが処理されていた。田中君は、本来なら陸戦隊本部の前にある完備した暗室にて、自動処理仕上げが出来るのだがと、些いささかぼやいていられ、当時兵隊さんの依頼するDPに、正視に耐えない残酷なものが多くて困るとも、洩らされていた。

※ D:現像(Develop)、P:焼付け(Print)

そして中国の写真屋で処理された写真が焼き増しされて流出し、残虐行為の証拠となった。[7]

 John B.Powell, My Twenty-five Years in China, The Macmillan Company, 1945. には、パウエル氏が、南京のアメリカ人宣教師が送ってきた南京事件の写真を上海で見たとき、同じような日本軍の残虐行為の写真や強姦記念に被害女性を入れて撮った写真などを、上海の朝鮮人経営の写真屋で見たことが書れている。パウエル氏は、それらの残虐写真は日本兵が国内の友人に送ろうしたものだと推定、その写真に写された行為が「近代戦のモラルからも、日常生活のモラルからも逸脱するものであるという意識はないようである」と嘆息している(三〇八頁)。

(略)

 中国戦場に出征していく時、少なからぬ日本兵が「中国に行けば中国人女性を強姦できる」のを楽しみにしていたという元兵士の話を聞いたことがある。パウエル氏が見たのは、日本兵が中国人女性の強姦体験を、戦場でなければできない自慢話の証拠に撮らせていた写真の一つであろう(当時の日本兵の性意識について拙著『南京事件と三光作戦』の「第三章 なぜ日本軍は性犯罪にはしったか――加害者の証言」を参照されたい)。さらに日本軍将校の中には、中国戦場における武勇談の一つとして、中国人捕虜を日本刀で斬首するところを記念撮影させていた者もいた。日本兵が所持していた日本軍撮影の残虐写真が、さまざまな経緯を経て中国側に残され、戦後の中国において各地の革命博物館や抗日烈士記念館に展示されたり、写真集に収録されたものが多く、それらの写真には場所や時期、撮影者を特定できないものが多い。しかしそれらは「ニセ写真」ではない。間違いなく日本軍の残虐を記録した写真なのである。山東省の革命博物館の写真展示にある、中国人を斬首している将校が誰か、部隊関係者が見てすぐ分ったという話を聞いている。

中国の写真屋から流出したり、戦死した日本兵の遺体から回収された写真は、撮影者も撮影場所も日時も不明であり、それだけでは「南京大虐殺の」あるいは「特定の残虐事件の」証拠とはならない。しかし、それらが日中戦争における日本軍の残虐行為を記録したものであることに間違いはないのだ。

[1] 大井満 『仕組まれた“南京大虐殺” 攻略作戦の全貌とマスコミ報道の怖さ』 展転社 1995年 P.13-14
[2] 村瀬守保 『私の従軍中国戦線』 日本機関紙出版センター 1987年 P.148
[3] 同 P.7
[4] 三重県総合博物館 『ベスト半裁判フィルムカメラ「ベビーパール」
[5] 麻生徹男 『上海より上海へ 兵站病院の産婦人科医』 石風社 1993年 P.72
[6] 同 P.73
[7] 笠原十九司 「南京大虐殺はニセ写真の宝庫ではない」 南京事件調査研究会編 『南京大虐殺否定論13のウソ』 柏書房 1999年 P.235-237

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増補 南京事件論争史: 日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社ライブラリー)

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