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『はだしのゲン』で描かれた「妊婦の腹を切りさいて中の赤ん坊を…」も嘘ではない

前回記事で、『はだしのゲン』が嘘を書いているとしてしばしば槍玉にあげられる、「女性の性器の中に一升ビンがどれだけ入るかたたきこんで骨盤をくだいて殺した」というおぞましい話が、実際には嘘などではなく、中国でこの残虐行為を実行した本人が語った内容であることを示しておいた。


この『はだしのゲン』についてはもう一つ、その隣のコマにある「妊婦の腹を切りさいて中の赤ん坊をひっぱり出した」という話も、嘘だとして攻撃のネタにされることが多い。


しかし、こちらの話も嘘ではなく、事実である。

例えば、東京裁判に提出された、フィリピンにおける日本軍の性暴力についての証拠資料の中にも、この種の犯罪に関するものが含まれている。[1]

4 フィリピンにおける性暴力関係証拠資料が示す性暴力の実態

(略)

③虐待の手段として行われた性暴力とは、強姦・強姦未遂に加えて、虐待を目的として、あるいは死に至らしめるまでの虐待として行なわれた様々な性暴力に関する資料である。例えば乳房や陰部を銃剣で切除する(Ex.1366)、裸で一晩中立たせる(Ex.1388)、胎児を腹部から出す(Ex.1414)といった行為が挙げられる。

 これらの資料は、強姦があたかも残虐行為の「一般的な手段」として用いられていたこと、また強姦が意図的に行われていたことを示しており、強姦、乳房・陰部・子宮への攻撃など、女性の「性」が攻撃のあからさまな対象となっていたことがわかる。

次は、中華民国政府によって行われた戦犯裁判に証拠として提出された、南京大虐殺時の残虐行為に関する目撃者証言。[2]

(略)また証人欧陽都麟は、「日本軍の谷寿夫部隊は南京攻略で中華門から真っさきに入城し、まず虐殺をおこなった。この二日間(十二・十三の両日)で中華門内外は死体が散乱し、惨たらしくて目をそむけざるをえないほどであった。ある妊婦は銃剣で腹部を刺され、腹から胎児がとびだして死んでいた。ある女性は銃剣で陰部を刺され、剣の先が臀部にまで突きぬけて死んでいた。また八〇歳の老婦人で強姦されて殺きれた人もいた」と供述している。(略)

こちらは中華人民共和国政府によって行われた戦犯裁判での事実認定。この裁判では中国側での徹底的な捜査の結果と、その内容を知らないまま加害者が自白した内容が一致した場合にのみ罪が裁かれており、事実認定の信頼度は非常に高い。[3]

鈴木啓久

 四一年から四五年まで罪状八件。(略)

 四二年四月「豊潤大討伐」を命令し、河北省「魯家峪虐殺事件」をひきおこした。民家一九〇〇余軒を焼き払い、斬り殺す、焼き殺す、毒ガスを放つなどで住民二二〇余名殺害、毒ガスを投げこまれ、穴から這い出た一八歳の娘を輪姦して死亡させた。強姦に抵抗した妊婦が腹を切り裂かれ胎児をえぐり出され殺された。


次は、南京攻略戦の途上、無錫付近の小さな集落で行われた虐殺を奇跡的に生き延びた生存者による証言。[4]

 三つ目の小集落・南前頭には、一二世帯四九人が残っていた。「鬼子」の一隊の近づく気配に、住民たちは逃げようとしたが遅かった。一一人だけ脱出したものの、三八人はつかまった。集落の農家一二戸は九里河という水路(クリーク)ぞいに並んでいて、家並みと水路との間は幅一〇メートルほどの庭になっている。百余人の兵隊たちは、三八人をここに集めてかこんだ。その中に二人の若い女性がいた。一人は一七歳の生娘、もう一人は妊婦だった。二人はそれぞれ別の家へ連行され、多数の「鬼子」たちに次々と輪姦された。二人とも立てなくなった。

 強姦を終わった兵隊たちは、放火と虐殺にとりかかった。いま輪姦した二人を庭にひきずりだす一方、他の兵隊らは手わけして各家に火をつけた。それから起きた阿鼻叫喚の様子は、各場面がほとんど同時進行したために、時間的に順序だてての説明はできないが、それは次のとおりであった。

 輪姦された二人の女性のうち、生娘は局部に箒を刺しこまれ、さらに銃剣を突き刺されて殺された。妊婦のほうは腹を銃剣で切りさかれ、胎児が外にえぐりだされた。


「慰安所」と称するレイプセンターに閉じ込められ、性奴隷としての生活を強いられた被害女性の中にも、このような蛮行を目撃した人がいる。「工場で働けば金が稼げる」という言葉に騙されて朝鮮から連行された朴永心さんは、1938年から大虐殺後の南京で「慰安婦」として働かされる中で、同じ境遇の女性が腹を裂かれて殺される現場を目撃している。[5]

 (略)しかし、それは過酷な「慰安婦」生活の始まりにすぎなかった。キンスイ楼での「慰安婦」生活は三〜四年にも及んだのである。そしてその間に、七人の仲間が病気や栄養失調で死んだり、あるいは切り殺され川に投げ捨てられたりしたのだった。

 そのうちの一人は、妊婦だった。兵士たちはサックの使用が義務付けられていたが、中には使いたがらない者もいたため、二四歳くらいだったその女性は妊娠させられたのである。お腹が目立つようになったころである。二人の兵士がその女性に襲いかかり、こともあろうか軍刀で腹を裂いたのだった。その時の女性の悲鳴で、慰安所の女性たちは皆彼女のところに駆けつけた。朴さんも部屋を飛び出して行き、この虐殺の現場を目撃した。胎児は引き出され、母子は無残に殺されたのである。

中国の少数民族黎族のある少女も、日本軍部隊に拉致され、日々強姦される生活の中で、このような場面を目撃させられている。[6]

 呉亜洞さん(仮名)は一九二五年七月生れ、保亭県A村に生れ、今もそこに暮す。

(略)

 一六歳のとき、日本軍に徴用されて「戦地後勤服務隊」なるものに入れられ、村の近くの駐屯地へ連れて行かれた。彼女と共に村から二人の娘が連行された。(略)

 駐屯地では、まず黎族の村から収奪してきた米の選別をさせられた。よい米とくず米を分ける作業だった。六、七日たって、日本兵が山へ烏を撃ちに行くのに同行させられた。この時、山のなかで、兵士四人に押さえられて隊長に強姦された。服を脱がそうとしたので、泣き叫ぶと、日本兵は彼女の顔を殴った。さらに銃床で打った。殺されると思って抵抗を止めると、日本兵は服を剥ぎ取って強姦した。下半身は血だらけになった。殴られた左耳はその後、ほとんど聞こえなくなった。

 それから、昼間は水運び、洗濯をさせられ、夜は日本兵に強姦される日々が続いた。一晩に五人もの兵士が襲ってきたこともある。生理中でも強姦された。日中、山へ連れていかれ、山の中で強姦されることも繰り返された。そんな時、嫌がったために、谷へ突き落とされ、左腰が岩に当り、歩けなくなった。左骨盤が骨折、今は腰が大きく左へ曲っている。

(略)

 近くの駐屯地だけでなく、他の駐屯地へ連れていかれて、強姦されたこともあった。大村ダイソンの軍慰安所には七日間監禁され、ザラーンでは四日間、兵舎に監禁され、そこで強姦された。大村の慰安所に送られたとき、ひとりの少女の虐殺を村人と一緒に見させられた。李亜細という少女が逃げようとして、捕まった。川辺に彼女を連れて行き、銃剣で腹を切り裂き、妊娠していた少女の腹の胎児を突き刺した。


最後に、蛮行を実行した本人による告白。[7]

 昭和十六年九月ごろから第六師団は、中国大陸最後の砦といわれる長沙へ向けて進撃を開始し
た。

(略)

 部隊の最前線にいるため食糧が底をつくときも多くあった。そのような時、進撃している途中、民家に五、六名組になって徴発に出かけていった。例外なくほとんどの現地人は逃げてしまい、無人地帯だが、中には逃げ遅れた子供や女が残って隠れていることもあった。若い女性はかならずといっていいほど、強姦をされて殺された。

(略)

 その日は敵との小ぜり合いも少なく、比較的平坦な道の行軍であった。

 谷間にある小さな平地に十四、五軒ほどの民家があり、その中を進んでいった。正午ごろであったろうか、私の脳裏に焼きついて離れない「狂気」としかいいようのない事件はここで起こった。というより自分の手で起こしたのだ。

 私たちはいつものように五、六名で徴発に出かけた。住民はみな逃げて、いないようであった。

(略)

 私たちは部落の中ほどにある家に入った。私と他の二人で入口に立って見張りをし、残りの三人が用心深く中に入っていった。しばらくすると奥から、「おい! ここにどん腹の女がいたぞ!」という声がしたので、中に入っていった。

 どんな顔をしていたか忘れたが、三十二、三歳ぐらいの女性で、見ると腹が大きく、そのため逃げ遅れたのであろう。うす暗い部屋の中でも、片隅にうずくまっている女性が震えているのがわかる。

 最初に見つけた友が、怯えている女性を引きずり出し、震えながら、それでも必死に抵抗する女性を強引に寝台にねじ伏せた。そして、面白いものを発見したかのように、「ひとつ女の腹の中にどんな具合いに赤ん坊が入っているか見てみようじゃないか」といった。「かわいそうだからやめろ」というと、友は激しい口調で、「俺たちは今夜死ぬか明日死ぬかわからんのに、情をかけてどうするか!」といった。

 もともと、私を含め他の者も、面白半分の気持ちが強く、結局、面白いからやってみようということになった。

 三人で、必死に抵抗する女をベッドに抑えつけた。二人で手を、もう一人が足を抑えつけた。私は手を抑えていた。

 臨月になっていると思われるその大きな腹の上部に包丁をあてた。そして、上から下へ一気に断ち割った。

 切りさくような女性の絶叫、はじける肉、瞬間、鮮血がベッドいっぱいにふき出し、ベッドが真っ赤な血の海となった。

 あまりにもむごい生命誕生の瞬間であった。そして、短かすぎる一生であった。もちろん、いつのまにかその女性は気を失っていた。ただいつ発したかわからないが、大きな何ともいえない悲鳴が、いつまでも耳に残っていた。

 面白半分でやったものの、かなりのショックをうけたのか皆、何もいわなかった。そのまま布をかぶせ、逃げ出すようにしてその家を去った。そこでの光景、胎児の姿は今なお、まぶたに焼きついて離れない。その後、この事件に関しては自分たちだけの秘密として、お互いに、しゃべることもなかった。今ごろこうして思い出すと、身が震え胸がしめつけられる。ほんとうに何ということをしたのだろう……。


ここに挙げた例はすべて別々の事件であり、もちろんこのように記録が残っているものは氷山の一角にすぎない。嘘どころか、日本軍の行くところ、中国でも東南アジアでも、このような行為が何度となく繰り返されていたのだ。

[1] 戦争裁判と性暴力・資料編集委員会 「【資料紹介】東京裁判と性暴力 ー 中国とフィリピンを例に」 季刊戦争責任研究 第61号(2008年秋季号)P.32
[2] 南京事件調査研究会編 『南京事件資料集(2) 中国関係資料編』 青木書店 1992年 P.304
[3] 新井利男 「中国の戦犯政策とは何だったのか」 季刊「中帰連」14号(2000年9月) P.25
[4] 本多勝一 『南京への道』 朝日文庫 1989年 P.84-85
[5] VAWW-NET Japan編 『「慰安婦」・戦時性暴力の実態 I ー 日本・台湾・朝鮮編』 緑風出版 2000年 P.268-269
[6] 野田正彰 『虜囚の記憶』 みすず書房 2009年 P.219-221
[7] 創価学会青年部反戦出版委員会編 『揚子江が哭いている ー 熊本第六師団大陸出兵の記録』 第三文明社 1979年 P.173-175

 

虜囚の記憶

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