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「天皇主義者」内田樹氏の元号論がやっぱり変

「天皇主義者」を自称する思想家・内田樹氏が、元号に関する朝日新聞の取材を受けて、その回答をブログに書いているのだが、率直に言って屁理屈のレベルを越えていない。

blog.tatsuru.com

元号を廃して、西暦に統一しようというような極端なことを言う人がいるが、私はそれには与さない。
時代の区分としての元号はやっぱりあった方がいい。そういう区切りがあると、制度文物やライフスタイルやものの考え方が変わるからである。
元号くらいで人間が変わるはずはないと思うかもしれないが、これが変わるから不思議である。
私の父親は明治45年(1912年)1月生まれで、その年の7月で明治は終わるので父は「半年だけの明治人」だったが、初雪が降る度に、「明治は遠くなりにけり」とつぶやく習慣を終生手離さなかった。それどころか、「明治男の定型」を演じるために無意識の努力を全生涯を通じて続けていたように思える(彼にとって新しいものは何でも「軽佻浮薄」で、面白い話は何でも「荒唐無稽」であった)。「大正人」と截然と差別化されたところの「明治人」なるものは父の脳内幻想に過ぎなかったけれど、実際には強い指南力を持っていたのである。

時代の区切りとして元号はあるべき、というが、時代の区切りとして最もふさわしくない、単なる一個人のライフイベントで時代を区切り、本来ひとまとまりとすべきでない時間範囲を意味のある「時代」であるかのように見せてしまうのが紀年法としての元号の最大の問題点だろう。(※ 明治政府によって作られた一世一元制下の元号)

最もわかりやすい例が「昭和」。2000万のアジア人、300万の日本人を殺したあの大戦での敗北という1945年の大イベントが区切りにならず、その前も後も「昭和」という同じ元号が用いられている。「昭和」が「制度文物やライフスタイルやものの考え方」を示す区分として不適切だからこそ、日本人は「戦前」「戦後」という時代区分を自然発生的に発明したのだ。「戦後民主主義」という言葉を「昭和民主主義」と言い換えることは不可能だ。

内田氏の父親の例で言えば、たまたま明治の末年に生まれたために「明治人」という自己規定を行い続けたというこの人は、あと1年遅く生まれていたら、これとは「截然と差別化された」「大正人」になっていたのか? そんなふうに、たまたま生まれたとき誰が天皇だったかで自己のあるべき姿ががらりと変わるような人生を、内田氏は是とするのか?

だいたい西暦だって、イエス・キリストの生年を基準とする紀年法であり、イエスがこの世に生まれたことで時間も聖化された(anno domini)とするものであって、別に価値中立的なものではない。キリスト教でも、ギリシャ正教は紀元前5508年を天地創造元年とする紀年法を採用しているし、ユダヤ教は紀元前3761年を創造元年とするし、イスラム教徒はムハンマドがヒジュラに移った紀元622年を元年とする紀年法を採用している。西暦で統一すればいいという人たちは、ギリシャ正教徒やユダヤ教徒やイスラム教徒の「お立場」というものを少しは配慮しているのであろうか。

西暦は、世界中で広く使われることによって、本来の宗教的意味を離れた単なる「共通暦年法」となりつつある。その上、イエス・キリストの生年が西暦元年ではないことも既に明らかになっている。

だいたい、「ギリシャ正教徒やユダヤ教徒やイスラム教徒の「お立場」」などを持ち出すのなら、日本に住む彼らが、ただの人間に過ぎない天皇への信仰(一神教徒にとって最も忌むべきもの)に基づく元号をありとあらゆる公的手続きで書かされることへの配慮はしなくていいのか?

同じことを繰り返すが、「複雑なものは複雑なまま扱う」のが大人の風儀というものである。

元号は単に複雑だからいけないのではなく、現人神とされた「万世一系」「神聖不可侵」の天皇が臣民の時間をも支配するという絶対主義的天皇制の残滓だから廃止されるべきなのだ。こんなものを将来に残し続けてはならない。

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