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明治維新直後の人民告諭は歴史修正主義と「日本スゴイ」教の元祖

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カルト教団の勧誘ビラレベルの「人民告諭」

1868(明治元)年10月に京都府民向けに新政府が発した「人民告諭」は、前回記事でも取り上げたが、改めて読んでみるとこれが非常に面白い内容なので、以下に全文を掲載する[1]。(クリックで拡大)

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それ人は、万物の霊とて、天地てんちの間に稟生うまるるもの、人より尊きものはなし、殊に我国は神州(かみのくに)と号いふて、世界の中うちあらゆる国々、我国に勝すくれたる風儀なし。尊き人と生れ、勝れたる紳州に住ながら、其辺へは心もつかす、徒に一生を過るは、云いいがひなきことならずや。人の禽獣に異なるゆえんは、道理を弁へ、恩義を忘れざるの心あればなり。即すなはち忠孝といふも、此心にて、荀かりそめにもこの心なきものは、人面獣心(ひとでなし)とて、顔容かおかたちは人なれども、禽獣にも劣るべし。されば人の人たる道に叶かなひ、神州に生れたる主意に乖そむかざらんと思はば、まず神州のありがたきを考へ 御国恩に報ゆる心掛すべし

この「告諭」はいきなり、「日本は神国で世界一の優れた国なのだ」と断言することから始まる。そして、その「神国」に生まれた幸運を有難く思えと要求する。もちろんこんな戯言は、聞かされる人民が日本以外の国のことなど何も知らない(「告諭」を書いている当人も実はほとんど知らない)からこそ平気で言えるわけである。

厚顔無恥な歴史修正主義言説

そもそも神州(につぽん)風儀外国(ほかのくに)に勝れたりと云は、太古むかし天孫(てんしさまのごせんぞ)此国を闢ひらき給ひ、倫理(ひとのみち)を立給ひしより、皇統(おんちすち)聊いささかかはらせ給ふ事なく、御代々様、承継うけつがせ給ふて、この国を治め給ひ、下民(しもしも)も亦御代々様を戴き、尊み仕え奉りて、外国の如く、国王度々世をかへて請うけたる恩も、二代か三代か、君臣(きみとけらい)の因ちなみも、百年か二百年か、昨日の君は、今日は仇、今日の臣下は、明日は敵となるやうなる浅間敷あさましき事にあらす。開闢以来(てんちひらけしより)動きなき皇統(てんしさまのおちすし)開闢以来(てんちひらけしより)かはらざる下民(しもしも)の血統なれは、上下の恩義いよいよ厚く益ますます深し。

で、どうして日本が神国であり、外国より優れているのかといえば、天地開闢以来天皇家が代々変わらず常にこの国を統治してきたからだという。

この「万世一系」観念が虚妄に過ぎないことは別記事に書いたのでここでは繰り返さないが、源平の戦乱以来何度となく戦火にさらされ、先祖代々変遷する権力者の姿を見続けてきた京都の民に向かってこんなことが言えるとは、大した無神経さである。まるで戦国時代も徳川時代もなかったかのようだ。これこそ日本的歴史修正主義の元祖と言っていいだろう。

ところで、現実には何度も王朝交代が起っているものの、形式的には近代に至るまで特異な「万世一系」が継続し得た理由は何か。私の考えは以前こちらの記事に書いたが、井上清氏の下記の見解も大変興味深い[2]。

 天皇の万世一系性は何によって保たれてきたかといえば、彼が皇太子を生むということのほかには何ごともせず、古代においては奴隷主貴族の、中世には農奴主武士の、近代には地主と資本家の人民搾取と圧政の王冠となるというふうに、これまでつねにあらゆる時代あらゆる社会の搾取=支配階級の結集する軸やその頂点となりながら、しかも天皇その人が、みずから権力を直接に専制的にふるうことはなかったということによる。制度上唯一最高の権力者となっているばあい――古代専制主義および近代絶対主義の天皇制のごとき――でさえも、天皇はじっさいにはローマのネロとかフランスのルイ一四世とかいうような権力者であるよりも、むしろ半ば呪術師的な最高権威であった。

 このことは反動的歴史家たちによって、天皇の非専制君主性を説く論拠とされているが、それは天皇の一般君主よりもとくにいちじるしい寄生性をこそ示すものではあっても、すこしもその非専制性を示すものではない。天皇の権威なるものは、けっして生産人民のための権威となったことがなく、またその本質上人民の権威たりえずして、人民を搾取し抑圧し専制する階級の権威としてのみ存在してきたし、また必然的にそういうものとしてしか存在できないものである。

天皇の「御恩沢」など何もないことを自白

是即万国(よろづのくに)に勝れし風儀にて天孫(てんしさまのごせんぞ)立置き給ふ御教、君臣の大義と申も、此事なり。外国(ほかのくに)度々かわる君臣(きみけらい)にても、此大義は、重き事に言伝たり。況まして斯迄かくまで久しき御恩沢飽まて報ひ奉る志なくては、叶ふべからす。かく申せは、一銭の御救に預あづかりし事もなく、一点(すこし)の御厄介に成なりし事もなく、我働わがはたらきにて我世を渡り、更に御国恩を蒙りたる覚なしと思ふ者もあらんかなれども、これは大なる心得違にて、諺に云、挑燈てうちんかりし恩は知れとも、月日の照し給ふ恩は、しらぬといふに同じ。

続いて「告諭」は、天皇の「御恩沢」を有難く思え、お前たちはその御恩に報いなければならないと説教するわけだが、天皇から一銭の「お救い」もただ一度の「お世話」も受けたことのない人民が天皇を有難くなど思うはずがないことを、図らずも「告諭」自身が白状してしまっている。

実際のところ、天皇の地元である京都の民は、天皇から恩を受けるどころかむしろ施す側だったことを、古田武彦氏の語る次のエピソードが示している[3]。

古田 (略)神戸から京都へ移った時で洛陽工業高校というところの教師になったんですが、そこでびっくりしたことがありましてね。というのは同僚の京都生え抜きの先生から聞いた話なんですけど、その先生の知ってる京都の老舗の主人からその先生が直接聞かれたことなんですが、どういうことかというと「天皇はんも出世しやはりましたなあ」とこう言うんです。

山田 (笑)。

古田 「この町に居なはる時は随分苦労したはりましたけど、うちには借金証文があったんですわ天皇はんの、いまさら取り立ても出来しまへんしなァ、まあ結構なこってす、出世しやはりましたんですから」。こういうことを聞かされて面白かったと、その人はね、「しかしまあほんまそういう感じなんですわ、京都では」ということを聞きましてね。私なんかそんなことを聞いた時はびっくりしたんですね。(略)

徳川幕府の「御恩沢」を横取り

御国恩は広大にして、極りなし。能よくよく考へ見よ天孫(てんしさまのごせんぞ)闢き給ふ国なれは、此国にあるとあらゆる物、悉ことごとく天子様の物にあらざるはなし。生れ落れば、天子様の水にて、洗ひ上られ。死すれは天子様の土地に葬られ、食ふ米も、衣る衣類も、笠も杖も、皆天子様の御土地に出来たる物にて、尚世渡りのなし易きやうにと、通用金銭(かねぜに)造せられ、儲る金も使ふ銭も、盡ことごとく天子様の御制度にて、用弁叶ふなり。其上防さまたげする悪人あらんかと、処々に御役所番所を建置れ、狼籍ものや、盗賊などの御制道あらせられ、小児に銭金持歩行しても、奪取ものもなく、老人婦女に、留守番さしても、狼籍する者もなく。田にも畠にも、米や野菜をつくり置、店端みせはし家外やそとに売物干し物出し置ても、盗取る者もなきやうにと、容易ならさる御世話にて、万一悪行するものあれば、種々御詮議の御手を盡され、それぞれ御咎おとがめ仰せ付らるるなり。斯かく御威光の御制道なきときは、銘々力づくとなり、弱きものは強き者に打殺され、老人は壯者わかものにおしたをされ、米も金も奪ひ取らるるべきに、御制道のあればこそ、一重や二重の塀垣は、打破りても入らるれと、番人付置にも不及およばづ乱入するものもなく、安穏(やすやす)に暮さるるなり。

具体的には何一つ天皇が民に施しているという「御恩沢」を挙げることができない「告諭」は、とうとう水も土地も食料も、この国にあるものはすべて天皇のものなのだと滅茶苦茶なことを言い出す。さらには、「御役所番所」まで民を守るために天皇が作ったのだと言う。

この「告諭」のつい一年前まで京都の治安を守ってきた東西の奉行所は徳川幕府が設置したものなのだが、いくらなんでもこの「御恩沢」を横取りするのはひどいのではないだろうか。

現代まで続く天皇の機能としての安寧祈願

尚も御代々様下民(しもしも)の難儀を叡念(おんこころ)にかけさせ給ひ、極寒の夜すからもったいなくも御衣(おめしもの)を脱せられ、民間の寒をおし計り給ひし事もあり。御膳に向わせられては、百姓共汗の膏あぶらにて作りし米とて、其苦労を思召出され、風水飢饉(おおかぜおおみづこめのできぬとし)のなきやうに、疫病やくびょう暴吐瀉これら(はきくだし)の流行はやらぬよう、民安かれと、朝な夕な、祈らせ給ふ事、実にありがたき事ならすや。此御恩澤我身一代の事のみならす。開闢以来(くにひらけしより)の先祖代々、皆其御蔭にて、世渡りし此往このさき子孫何代と云限りもなく、また其御蔭に生長(そだつ)するなり、
然るに三百年来昇平(よおさまり)の季すへいつとなく御政道不相立あいたたす天子様はあれども、無か如く、下民御愛憐(おんいたわり)の叡慮(おこころ)も、中途(なかほど)に滞り、賄賂(まいない)盛んに行われ、善人も罪に陥り、悪人(わるもの)却て幸を得る体に成行けれは、大に宸襟(おんこころ)を悩し給ひ、御寝食(おしつまるまもごぜんのひま)も、安からす、仮令たとひ如何なる御患難に逢せられ給ふとも、下民(しもしも)の苦しみ、見るに不忍との御事にて遂に此度王政復古(ごせいじをとりかへす)諸事正大公明(ただしくおおいにあきらか)にして上下心を一にし、末々に至るまで、各おのおの其志を遂させ、益安穏(やすらか)に、世渡を営ませ、永く皇国(につほん)の外国(ほかのくに)に勝れし風儀を守り、広く皇威(こゐくわう)を世界(よのなか)に輝かさんとの御事なれば、能々よくよく此叡慮(おこころ)を感戴し奉り、謹て御沙汰筋を守り、共々努て、御為に成べき儀を、心掛
累代の御鴻恩を分毫(すこし)にても、報ひ奉らぱ神州の民たるに乖かざるべし。

  明治紀元戊辰年

「告諭」が最後に恩着せがましく語るのは、天皇が常に民の苦労を心にかけ、その安寧を祈願しているというお話である。実際には何一つ民に利益を与えることなく、ただそのような「お話」を流布するだけでいいのだから、実にローコストな人気取りである。

このような、天皇の「叡慮」だの「祈願」だのといったものは、現代に至るまで、民衆の不満が直接権力に向かわないようその方向をそらし、欺瞞的に解消するための機能として大いに活用されている。現天皇が大災害の被災地に行って被災者と言葉を交わしたり、先の大戦の戦跡を訪れて「慰霊」したりするのも同じなのだが、この国では今でも、「リベラル」と呼ばれる学者までがこの手のパフォーマンスに易易と騙されている。

あまりに大きな「鼓腹撃壌」と「告諭」の落差

最初から最後まで天皇の「御恩沢」を押し売りし、その恩に報いよと要求する「告諭」を読んでいると、どうしても漢文の授業で習ったあれを思い出さざるを得ない。

『十八史略』に出てくる、中国古代の聖帝「尭ぎょう」についての説話「鼓腹撃壌」である。([4]から現代語訳のみ抜粋)

帝尭陶唐氏は帝嚳の子である。

(略)

天下を治めて五十年になったが、天下は(平安に)治まっているのか、治まっていないのか、万民が自分を天子としてあがめることを願っているのか、願っていないのか、わからなかった。
側近に尋ねたところ、わからず。外朝に尋ねたが、わからず。(官に仕えない)民間の者に尋ねたが、わからず。

そこで人目につかない服装にして大通りに出かけた。

童謡を聞くと、歌っていたことには、
「私たち民衆の生活を成り立たせているのは  あなた様の徳のおかげに他なりません  知らず知らずのうちに  帝の法に従っています。」と。

老人がおり、食べ物をほおばり腹つづみをうち、足で地面を踏み鳴らして拍子をとって歌っていたことには、
日が出れば仕事をし  日が沈めば休息する  井戸を掘って水を飲み  田を耕して実った作物を食べる
帝の力がどうして我々に関係あろうか。(いや、ない。)」と。

尭帝は、その老人が満たされた生活をしながら、帝の力(=御恩沢)など自分には何の関係もないと言うのを聞いて、世の中がうまく治まっていることを知ったという。

もちろん尭は伝説上の帝王であり、このエピソードが事実であったとする根拠は何もない。しかしこれは、儒教的な理想の帝王像を描いたものとして意味がある。

この説話と並べた時の「告諭」のスケールの小ささには、なんとも情けない思いを禁じ得ない。

[1] 吉野作造編 『明治文化全集 第22巻 雑史篇』 日本評論社 1929年 P.488-489
[2] 井上清 『天皇制』 東大新書 1953年 P.251
[3] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一新書 1994年 P.136
[4] フロンティア古典教室 『鼓腹撃壌』原文・書き下し文・現代語訳

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