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加害者証言抑止装置としての「戦友会」

■ 都城23連隊兵士の陣中日記をめぐる騒動

先日、南京戦当時のカメラの値段について書いたが、話の発端となった朝日新聞の記事は、南京戦に従軍したある兵士が書いた陣中日記を紹介したものだ。

朝日新聞(1984年8月5日):

南京虐殺、現場の心情

宮崎で発見 元従軍兵士の日記

 日中戦争中の昭和十二年暮れ、南京を占領した日本軍が、多数の中国人を殺害した「南京大虐殺」に関連して四日、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城二十三連隊の元上等兵(当時二三)の、虐殺に直接携わり、苦しむ心情をつづった日記と惨殺された中国人とみられる男性や女性の生首が転がっているシーンなどの写真三枚が見つかった。(略)

 この日記は、縦十九センチ、横十三センチで約四百ページ。昭和十二年の博文館発行の当用日記が使われ、元日から大みそかまで毎日、詳細に記録されている。(略)
 だが、十五日には「今日、逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称=べっしょう)約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨ててしまって大道に婉々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢へて喜んでいるのが流行しだした様子」。惨劇が始まったことを記録している。
 二十一日。「今日もまた罪のないニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ。これでたたらなかったら因果関係とかなんとかいうものは(意味不明)ということになる」。自ら手を下したことを認めるとともに後悔の念をみせている。さらに虐殺が日常化していることもわかる。
(略)
 写真はアルバムに三枚残っていた。(略)撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に「南京虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという。
 この兵士は帰国後、農林業を営み、四十九年に腎臓(じんぞう)病で死去した。家族の話では、生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという。死ぬ前には当時の戦友や家族に「罪のない人間を殺したためたたりだ」ともらしていた。

この兵士は自分が直接手を下した虐殺行為をその当日に書き記しており、まさに(ウヨさんたちが大好きな)第一級の一次史料である。

12月21日の日記(画像出典:[1])

この記事が出ると、日記を書いた兵士の所属部隊として名前の出た都城23連隊(宮崎)の「連隊会」が、さっそく「犯人探し」を始めた。わが連隊の名誉を汚した不届き者は誰だ!というわけだ。

しかし、情報提供者を守るため、朝日新聞は兵士の身元特定につながる情報を事実とはずらして記事に載せていたため、連隊会は別人を日記を書いた兵士と思い込み、その遺族から「日記などつけていなかった」という言質を取った上で、朝日新聞宮崎支部に押しかけた。そして、この抗議への朝日側の対応が拙劣だったこともあって、騒動は不買運動から訴訟にまで発展した。[2][3]

この騒動の過程からも、この「連隊会」のような戦友会組織が、元兵士たちやその遺家族の口を封じ、加害の証拠・証言を外部に漏らさないようにする機能を果たしてきたことがよく分かる。[4]

(略)もっとも苦しんだのは、最初のうち日記提供者と誤認された(A--氏名削除)未亡人で、村人から白眼視され肩身の狭い思いで暮しているという。
(略)どうやら真相は、連隊会からただされた(B--氏名削除)未亡人が、面倒を恐れて日記は焼き捨てたと述べたこと、その前に連隊史のため(B)日記を借り出して読んだ人が、読んだと言いそびれてしまったことにあったようだ。

ちなみに、同連隊には他にも虐殺はあったと主張している元兵士がおり[1]、日記の信憑性は高い。また、中国側にもこれと符合する証言がある。[5]

【陳秀英(女性)の証言】*一九二二年八月生まれ 当時の住所 進香河

 十二月十三日、大勢の日本兵が縄梯子を使って水西門から入って来るのを見ました〔「水西門は城西の主要城門で十三日八時、歩二三〔第六師団歩兵第二十三聯隊、都城〕は城壁西南突角の破壊口を通って城内に…と『南京戦史』にある〕。日本兵は人を見れば殺しました。女性を見つければ強姦した後に殺しました。日本軍が私たちの家の近くに迫ってきたと聞いてまもなく、日本兵がきて私がいるのを見ているので、いずれきっと強姦されるに違いないと思って私一人が逃げたのです。(略)逃げる途中、日本鬼子は民家に入り込んでは女性を引き出し、家に火をつけて回るのを見ました。日本兵に見つからないよう隠れて難民区にたどりつきました。私は食事をとるために、あまり日本兵のいない夜になってから毎日家と五台山を往復しました。
 十二月十三日夕方、夫は食べ物を探しに出かけたところを日本兵に見つかり、胸を銃剣で刺され、殺されました。(略)
 道沿いに大勢の死体が転がっていました。日本軍が入ってきた初日は中央軍の死体が多かったのですが、翌日になると一般民衆の死体が多くなっていました。

■ 不都合な証言を封じる相互監視機構として作用した「戦友会」

戦後、各地で自然発生的に作られた「戦友会」は、親睦団体とは言うものの、内部では旧軍の精神構造をそのまま引きずっていた。[6]

 さきほど述べたように、天皇の戦争責任が免責されていることとかかわって、旧日本軍全体がまだ過去の戦争を肯定する立場にあります。旧軍人社会では靖国神社奉納、参拝が依然として重視され、各地域、各部隊ごとの各種の戦友会が旧軍隊の精神構造をそのまま引きずって網羅的に組織されている日本社会においては、九割以上の旧軍人は、日本軍と自己の「正当性」を保持するために、自分、あるいは部隊仲間が行った加害・残虐行為については、公に証言しない態度を堅持しています。さらに、不法・残虐行為について証言を行った旧軍人に対して「皇軍」の名誉を汚すものとして、証言封じのための種々の嫌がらせや圧力を加える軍人社会の体質もそのまま残っています

その結果、旧軍兵士たちは仲間内だけの席では平気で加害行為を口にしても、外部に向けてそれを語ることはほとんどなかった。

「戦友会」が旧軍人同士の相互監視・抑圧の機構として作用してきたことが、南京大虐殺に限らず、日本側の加害証言・資料が極めて少ない原因の一つであることは間違いないだろう。

[1] 秦郁彦 『昭和史の謎を追う(上)』 文藝春秋 1993年 P.137
[2] 同 P.135-136
[3] 大井満 『仕組まれた“南京大虐殺”』 展転社 1995年 P.12-13
[4] 秦 P.136-137
[5] 松岡環 『戦場の街南京』 社会評論社 2009年 P.253-254
[6] 笠原十九司ほか編 『歴史の事実をどう認定しどう教えるか』 教育史料出版会 1997年 P.107-108

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