もう呆れるしかない。
小林よしのりさんが今週の「SPA!」に描いた古谷経衡さんと私。手に「差別」と書いたカードを持って、なにかを必死に訴えてる。たしかに私は懸命に差別に反対してるけど、それおかしいことかな?小林さんはどうしてそんなに差別に反対する人を敵視するんだろう? pic.twitter.com/mRSp2NYp8Y
— 香山リカ (@rkayama) 2019年1月29日
いや真だかなんだか知らないが、差別表現するやつが普通に差別者だろ。バカなの?#何を言ってるんだお前は pic.twitter.com/cQMmQDG9Hh
— 竜 РЮ (@yappata2) 2019年1月29日
差別表現は「表現の自由」によって保護されるべき範疇には入らない。いや、入れてはならない。なぜなら差別表現は被差別者を抑圧し、彼ら・彼女らが自らの意志を表現する自由を奪うものだからだ。
不寛容(差別・排外主義)に対して寛容であってはならない、寛容な社会を維持するためにはこれと闘わなければならない、というのと同種の話だ。
「いくらなんでも廃刊はあんまりな」「言論の自由がある」などという者は「生産性のない障害者は殺せ」の相模原事件の犯人の意見をまるっと主張として載せる雑誌があれば非難するだろう。しかしこれもおなじくだ。
— ジ ョー (@asitawadottida1) 2018年7月28日
何回でもこのカールポパーの寛容のパラドックスをのせておく。 pic.twitter.com/2FV61jJDaH
だいたい小林は自らの主張する「表現の自由」を何に使ってきたのか。「表現の自由」の前提となる普遍的価値である人権や平和を守ろうとする人々を嘲笑するためにしか使っていないではないか。
小林よしのりが一貫しているのは、権力を風刺するのではなく、権力によって虐げられた側や、人権や平和を求めて戦っている人を嘲る態度なんだ。
— ブースカちゃん (@booskanoriri) 2019年1月30日
(・ω・) https://t.co/SqeCVfaGnN
いまこの国に必要なのは、差別表現を放置する「表現の自由」などではない。欧州で実施されているのと同様な、包括的差別禁止法だ。
しかしそれに「目覚めてしまった」以上、日本も国際人権規約が求めている「戦争宣伝と、人種的民族的憎悪を唱道する表現の法律による禁止」(日本は留保していない)を履行しなければならない時代に”進んだ”のだろう、と思いますね。
— 田川滋 (@kakitama) 2019年1月29日
つまり憲法14条を私人間にも担保する「包括的な差別禁止法」。
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