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オーストラリアが日本の戦争責任に厳しかった理由

 オーストラリア人看護婦たちを殺す前に強姦していた日本軍

1942年2月、インドネシア西部のバンカ島で、数十名のイギリス人およびオーストラリア人の捕虜と民間人、さらに21名のオーストラリア人看護婦が日本軍に虐殺された。

このとき、看護婦たちは単に殺害されただけでなく、その前に日本兵により強姦されていたことが明らかになった。BBCが次のように報道している。

www.bbc.com

「この真実を発掘し、ついに公表するには、複数の女性の力が必要だった」

軍事史を研究するリネット・シルヴァーさんがこう言う「真実」とは、1942年2月にインドネシア・バンカ島で、海の中へ歩かされ、機関銃で銃撃されたオーストラリア人看護師22人の身に起きたことを指す。看護師たちは1人を除いて全員殺された。

「それだけでぞっとした。でも、殺害前に強姦されていたなんて、語るにはむご過ぎる真実だった」。シルヴァーさんは、新著で詳しく書いた証言について、こう話す。

「オーストラリア軍の高官たちは、悲しみに暮れる遺族たちに、家族が強姦されていたという不名誉を与えたくなかった。恥ずべきことだと思われていたので。レイプは死よりもひどい運命と考えられ、ニュー・サウス・ウェールズ州では1955年まで(加害者が)絞首刑による極刑で処罰されていた」

唯一の生存者

看護師のヴィヴィアン・ブルウィンクルさんは、虐殺事件で体に銃弾を受けたが、死んだふりをして生き延びた。ジャングルに身を隠し、やがて戦争捕虜となり、のちにオーストラリアへ帰国した。

第2次世界大戦後に開かれた東京裁判では、ブルウィンクルさんは強姦について「話すのを禁じられた」と、シルヴァーさんは言う。ブルウィンクルさんは2000年に死去したが、何があったのか、テレビキャスターに伝え残していた。シルヴァーさんが今回調べたのは、その内容だ。

「ヴィヴィアンは命令に従っていた」とシルヴァーさんは言う。「(強姦被害について黙ったのは)タブーというのもあったし、オーストラリア政府には多少の罪悪感があったのだろう。政府高官は、1942年の香港侵攻の際、日本兵がイギリス人看護師たちをレイプし、殺害したのを知っていた。それなのに、オーストラリア人看護師をシンガポールからなかなか避難させなかった」

オーストラリア政府によれば、虐殺の実行者は今も特定されず、「罪について何も処罰されていない」

(略)

シルヴァーさんのほかにも複数の女性が、看護師たちへの性的暴行の証拠を発掘した。テレビキャスターのテス・ローレンスさんと、伝記作家のバーバラ・エンジェルさんだ。

(略)

ローレンスさんは2017年、ブルウィンクルさんから生前に打ち明けられたという話を報じた。それは、「ほとんどの」看護師が銃殺される前に「暴行された」という内容で、ブルウィンクルさんは、そのことを公表したかったができず、秘密はブルウィンクルさんを「苦しめた」と言っていたという。

シルヴァーさんはこのほか、バンカ島でマラリアの手当てを受けていた日本兵の証言にも言及している。その兵士はオーストラリアの調査官に、当時、悲鳴を聞いたと話した。また、兵士たちが「海岸で楽しんでいるところで、次は隣の小隊の番だ」と聞かされたと証言していた。

 生存率 0.24%!! 地獄の捕虜収容所

もちろん、オーストラリア人が被害者となった虐殺・虐待はこれだけではない。

たとえば、日本軍の捕虜となった連合軍兵士の死亡率が、ナチスドイツに捕らえられた場合より遥かに高かったことは、よく知られている。[1]

ナチスより残虐な日本軍

 アジア太平洋戦争では、約三五万の連合軍将兵が日本軍の捕虜となった。そのうち、本国軍の将兵は約一五万、その国籍はイギリス、オランダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの六カ国であった。

(略)

 この間、連合国捕虜が、当時存在していた戦時国際法にのっとった人道的待遇を受けることはまれであった。連合国捕虜は常に精神的屈辱、肉体的暴力、奴隷労働、過酷な移動、飢餓、医薬品の不足、傷病、衣類の剥奪、友軍による攻撃に悩まされた。彼らを取り巻く状況がいかに過酷であったかは、日本軍の捕虜となった連合国将兵の死亡率に歴然とあらわれている(次頁表)。

 極東国際軍事裁判(東京裁判)の速記録によればナチス・ドイツの捕虜となった英米将兵の死亡率は七%であるのに対して、日本の捕虜となった二国の将兵の平均死亡率は二七%と非常に高い。国と収容地域によって若干の差異はあるものの、ドイツ軍もまた、必ずしも常にこれらの捕窪虜を国際法にのっとって取り扱ったわけではないので日本軍の捕虜がいかに過酷な状況下にあったかが推察できよう。

 後にくわしく述べる「泰緬たいめん鉄道」の建設にあたって、日本軍から奴隷労働を強制させられたオーストラリア人元捕虜トマス・ユーレン(元副首相)は、当時を次のように回想している。

 日本の兵隊や技師たちの残虐さとサディズムに満ちた捕虜時代の体験は、私の魂に深く刻みこまれた。私はもともと人を憎悪するような人間ではない。しかし、当時は、地球上の全ての日本人をみな殺しにしたいと思った……(杉本良夫『オーストラリア六〇〇〇日』)

平均死亡率27%はそれだけでも異常な高さだが、これはあくまで平均値であって、アンボン収容所では生存率(死亡率ではない)23%、サンダカン収容所では、なんと生存率0.24%だった。もともと頑健な若い兵士たちが、わずか三年半ほどの間にほぼ根絶されてしまったのだから、その間に行われた虐待や強制労働、飢餓がどれほどのものだったか、およそ想像できる限界を超えている。[2]

 オーストラリアの人たちにとっても、「サンダカン」という地名にはあまりなじみがない。ここの捕虜収容所に抑留された数多くの豪州軍捕虜が、どれほど苦しい経験をしたのかを知るオーストラリア人はさらに少ない。実はこの捕虜収容所には、一九四三年九月時点では約一八〇〇名のオーストラリア軍捕虜と七〇〇名のイギリス軍捕虜が収容されていたが、戦後まで生き延びたのはこのうちわずか六名であった。生存率はなんと〇・二四パーセント、この六人はほとんど奇跡的に生き延びたと言っても過言ではない。数年前日本でも上映されたオーストラリアの映画『アンボンで何が裁かれたのか』で日本人にも少し知られるようになった悪名高いアンボン収容所でさえ、五二八名のオーストラリア軍捕虜のうち終戦まで生き延びたのは一二三名、生存率二三パーセントであった。また、過酷な強制労働に従事させられた連合軍捕虜六万五〇〇名のうち一万二〇〇〇という大量の死亡者をだした泰緬鉄道建設は、絶対数のえではサンダカン収容所の捕虜の死亡数と比較にならないが、捕虜の生存率から見れば八〇パーセントという高い数字を残している。この泰緬鉄道建設に送り込まれたオーストラリア軍捕虜の場合は、総数九五〇〇名のうち死亡者は二六四六名、生存率七二パーセントであった。

 サンダカンの場合、それほど徹底的に捕虜が虐待、虐殺された収容所であったにもかかわらず、オーストラリアにおいてすらも「サンダカン」の地名すらよく知られていないのはなぜであろうか。「捕虜虐待」という言葉を耳にするとき、オーストラリア人はほとんど反射的に「泰緬鉄道建設」を想起し、「サンダカン」という地名を頭に浮かべる人はほとんどいない。これはおそらく、泰緬鉄道建設の場合は生存者が多く、戦後帰還した捕虜たちによって過酷な強制労働の実態が語られ、また彼らの多くが自叙伝を書くことによって国民に広く知られるようになったのに対し、サンダカンの場合はほとんど生存者がおらず、なんとか生き延びた六人にとっては、最後まで生き抜くために言葉ではとても表現できないような凄まじい経験をさせられたため、その精神的傷痕があまりにも深くて、他人に語ったり文章にしたりすることがきわめて困難であったからだと思われる。この六人のうち三人が今も健在であるが、彼らが自分たちの経験を公けの場で語り始めたのは一九八〇年代に入ってからのことである。

 日本の戦争責任追求において最強硬派だったオーストラリア

戦後の日本統治に天皇を利用しようという思惑から、早い段階で裕仁の免責を決めていたアメリカなどとは異なり、オーストラリアは連合国の中でも日本の戦争責任追求に関して強硬だった。東京裁判に向けての国際検察局による戦犯容疑者の選定作業において、オーストラリアは最も多くのA級戦犯容疑者をリストアップし、天皇の訴追をも正式に提議している。[3]

アメリカの検察陣が作成したA級戦犯容疑者リストには30人の名前が記されていたが、イギリスのリストには11人しか記載されていない。いずれのリストにも天皇の名前はなかった。しかし、オーストラリアが示した起訴可能な「100人の暫定リスト」には、「平和に対する罪と人道に対する罪」の容疑で天皇が含まれていた。さらにオーストラリアは、天皇に対する容疑を裏づける詳細な覚書を提出した。覚書はこう強調している。「いかなる時点においても」裕仁が侵略的な軍事行動について「強要によって承認の文書を書かされた」ことはない。そして覚書は修辞的に問いかけている。「彼の犯罪は、彼が是としなかったことを承認したがゆえに、いっそう重大なのではなかろうか」と。

オーストラリアがこのように戦争責任の追求に関して強硬(言い方を変えればまとも)だった背景には、アメリカなどとは異なり東西冷戦の主役ではなかったこと、地理的にも相対的な軍事力から言っても南方に侵攻してきた日本の脅威が死活的に深刻だったことに加え、同胞が犠牲となったこうした残虐行為に対する憤りもあったのではないだろうか。

[1] 油井大三郎・小菅信子 『連合軍捕虜虐待と戦後責任』 岩波ブックレット 1993年 P.8
[2] 田中利幸 『知られざる戦争犯罪 ― 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』 大月書店 1993年 P.18
[3] ハーバート・ビックス 『昭和天皇(下)』 講談社学術文庫 2005年 P.290

 

連合国捕虜虐待と戦後責任 (岩波ブックレット (No.321))

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昭和天皇(下) (講談社学術文庫)

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知られざる戦争犯罪―日本軍はオーストラリア人に何をしたか

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