今日は日本が沖縄を最終的に見捨てた日
今日、6月23日は、73年前、牛島第32軍司令官が自決して沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終わった日であり、そのため沖縄県は、この日をすべての沖縄戦戦没者の霊を慰める「慰霊の日」と定めている。
しかし、この日で沖縄戦が終結したわけではない。牛島司令官は軍としての戦闘が継続不可能となっても降伏せず、最後の軍命令で「死ぬまで戦え」と命じた[1]。
全軍将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり。然れども今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕たんせきに迫る。既に部隊間の通信途絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり。爾今じこん各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし。
このためその後も残存部隊と米軍との戦闘が住民を巻き込みつつ続いていった。沖縄戦の正式な降伏調印が行われたのは9月7日だし、喜屋武半島の洞窟地帯では12月ごろまで敗残兵が出没して住民の恐怖のまとになっていたという[2]。
だからこの日を「慰霊の日」とすることには異論も多いが、牛島司令官の自決は戦場に取り残された沖縄住民に対する責任放棄であり、その意味で6月23日は日本が沖縄を最終的に見捨てた日だったと言える。
究極の戦争被害と言える集団自決(強制集団死)
日本軍将兵の死者数(約9万人)を大きく上回る約15万人(四人に一人)の住民が死に追いやられた沖縄戦の悲惨さは言うまでもないが、沖縄住民にとって、日本軍による住民虐殺と並んで究極の戦争被害と言えるのが集団自決(強制集団死)だろう。
捕虜になることを恐れて親子兄弟が殺し合う、などという悲惨な事件はなぜ起きたのか。
1988年2月、沖縄戦に関する検定の適否が争点の一つとなった家永教科書裁判の出張尋問が那覇地裁で行われ、ここで集団自決を生き延びた被害者である金城重明氏が次のように体験を証言している[3]。
「私は実の母をこの手にかけて殺した……四三年間、背負い続けた重荷を、これからも背負い続けていく。それ以外に私の生きる道はない」
「集団自決事件」の生き証人、金城重明さんがとつとつとこう述べたとき、法廷内は一瞬、粛然と静まりかえった。(略)この人の身の上にあの日、いったい何が起こったのか。公判に先だってご本人から聞いた言葉の数々と金城さん自身が綴った「証言意見書」をもとに、「あの日」を再現してみる。
那覇の西三◯キロの東シナ海に浮かぶ慶良間諸島。点在する二◯ほどの島々のうち最も大きいのが渡嘉敷島である。金城さんは、いまは沖縄でも有数の海のリゾート地となっているこの島で一九二九(昭和四)年に生まれた。(略)
まぎれもない軍国少年として育った金城さんは、一九四五年三月、米軍による沖縄攻撃開始により「惨劇の日」に向かって運命的に引き寄せられていく。
米軍が渡嘉敷島に上陸したのは三月二七日のことである。島の住民はその夜、日本軍の指示で軍の陣地近くに移動を命じられた。激しい豪雨と激しい弾雨だった。集結した島民は一千人にのぼったという。
(略)
「自決命令」が軍から出された、と情報が流れた。手榴弾が配られる。家族親戚が輪を作る。手榴弾をたたきつける。しかし、発火しない。従って死傷者は必ずしも多くはなかった。不幸中の幸いと呼んでもいいこの出来事はしかし、実はさらなる惨劇に結びついていった。
至近弾の爆風でしばらく意識もうろう状態になっていた金城少年は、徐々に覚醒しながら異様な光景に目を奪われた。
中年の男が木を折っている。全力できわめて熱心に折っている。そして次の瞬間、折り取った木を振りあげ、傍らにうずくまっていた妻や子を無茶苦茶に殴り始めた。
これが導火線になった。夫が妻を、親が子を、兄が妹を、鎌を振るい、棍棒を振るい、石を振るって撲殺する。文字通りの地獄だったと金城さんは言う。
「私も幼い弟や妹の最期を見届けてやらなければなりませんでした。愛する故にそうしなければと思い込んでしまっていたのです。あのとき一六歳と一ヶ月でした。私と兄はついに自分を産み育ててくれた母親に手をかけることになりました」
石を使ったか木を使ったか記憶は曖昧である。しかし、母を殺してしまったのはまぎれもない事実だった。兄弟は号泣した。しかし、あのとき他にどのような方法があったのか。
「鬼畜米英と教えられ、女たちはその鬼畜によって八つ裂きにされると教えられておりました。そんなことになるよりはいっそ自分の手で。それが愛情なのだと、これも長い間の教育のおかげでそう信じ込んでおりましたのです」
奇妙なルールが出来あがっていた。愛情の深い者ほど、弱い者ほど先に殺すというルールである。大事な者ほど先に、しかも確実に消す。
「これが唯一残された愛情の表現でした」
一人でも息を吹き返してくれこの人はどうしてこのように静かな雰囲気で、このような告白が出来るのか。金城さんの話を聞きながら何度もそう思う。が、そう思いながらのぞき込むこの人の視線の暗さに改めて胸を突かれる。
金城さんばかりでなく、そこで生き残った誰もが日本軍の玉砕を信じて疑わなかった。住民に自決を命じておいて自分たちが生き永らえるなど、到底、皇軍のよくなし得るところとは思えなかったのである。
しかし、日本の軍人たちは生きていた。それどころか食事をとりながら談笑している。金城少年は目のくらむような怒りに我を忘れていた。だが、いくら悔やもうと、いくら嘆こうと、死者たちはもはやどうやっても生き返ってはくれない。
「一人でもいいから息を吹き返してくれないかと願いました。でも、それは、はかない望みだったのでありますねえ。愛情が深かったから、徹底的に殺害してしまったのです」
この渡嘉敷島で集団自決の現場に遭遇した米軍部隊が、その状況を次のように報告している[4]。
三月二十九日、昨夜、われわれ第77師団の隊員は、慶良間最大の島、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。その時、一マイルほど離れた山地からおそろしいどよめきの声、悲鳴、呻き声が聞こえてきた。手榴弾が六発から八発爆発した。「一体何だろう」と偵察に出ようとすると、闇の中から狙い撃ちされた。仲間の兵士が一人射殺され、一人は傷を負った。われわれは朝まで待つことにした。その間人間とは思えない声と手榴弾の爆発が続いた。ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何と言うことだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけであった。
そこには二百人ほど(注・G2リポートには二百五十人とある)の人がいた。そのうちおよそ百五十人が死亡、死亡者の中に六人の日本兵がいた。死体は三つの小山の上に束になって転がっていた。われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。およそ四十人は手榴弾で死んだのであろう。周囲には、不発弾が散乱し、胸に手榴弾をかかえ死んでいる者もいた。木の根元には、首を絞められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。母親だと思われる三十五歳ぐらいの女性は、紐の端を木にくくりつけ、一方の端を自分の首に巻き、両手を背中でぎゅっと握りしめ、前かがみになって死んでいた。自分で自分を絞め殺すなどとは全く信じられない。死を決意した者の恐ろしさが、ここにある。
小さな少年が後頭部をⅤ字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを与え、痛みを和らげてやった。全部で七十人の生存者がいて、みんな負傷していた。(略)
生き残った人々は、アメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げた。「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。そして七十人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている所に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねはならぬほどだった。何とも哀れだったのは、自分の子供たちを殺し、自らは生き残った父母らである。彼らは後悔の念から泣きくずれた。自分の娘を殺した老人は、よその娘が生き残り、手厚い保護を受けている姿を目にし、咽び泣いた。また、別の島々でも同様な自殺、あるいは自殺未遂例があった。慶留間島の洞窟では、十二人が絞殺されていた。
第77師団の歴戦の猛者たちも、このありさまをわが目で確かめるまで信じられなかった。日本兵だけでなく、日本の住民まで“アメリカの野蛮人に捕まるぐらいなら死ぬ方がましだ”という信念で自殺する狂気の沙汰が実際に起ころうとは……。
集団自殺の現場を目撃し、日本兵の浴びせる機関銃の中をくぐり抜け、子供たちを助けたのが、ジョン・S・エバンス軍曹である。
(一九四五年三月二十九日 アレクサンダー・ロバーツ伍長の談話より)
この集団自決(強制集団死)について、日本では、日本軍部隊による直接の自決命令はあったのか(命令がなければ軍に責任はない)などと問題を矮小化しようとする主張がなされている。だが、金城氏が次のように語っている[5]とおり、沖縄の人々は長年の皇民化教育と軍からの圧力により死ぬしかない状況に追いやられていったのであり、そのような責任逃れは許されるものではない。
渡嘉敷島の「集団自決」についてひとつの論争がある。「日本軍は自決を命じたのか」。これが争点である。金城さんはきっぱりと言う。
「手榴弾は住民や村の指導者が自決のために軍に要請して貰い受けたわけではない。皇軍の武器は民間人の希望や意志で操作出来るものではなかった。村の担当者の話では、青年団員と役場の職員二〇名から三〇名ほどが役場に集められ、軍が手榴弾を各自二個ずつ配った。捕虜になる恐れがあるときには、一個を敵に投げ、他の一個で自決するように言われた。つまり、手榴弾は、自決のため、あらかじめ軍から渡されたのだ」
戦後も沖縄を踏みにじり続ける日本政府
第32軍海軍部隊司令官の大田実少将は、6月13日、豊見城の司令部壕で自決する前、大本営に向けて「沖縄県民カク戦ヘリ。県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との電文を発している。
しかし、戦後の日本政府は沖縄に対してどのような「配慮」をしてきたというのか。配慮どころか、狭い沖縄に大半の米軍基地を押し付け、危険な核を押し付け、沖縄にだけは事実上日本国憲法を適用せずに踏みにじり続けているではないか。
あたかも今日、安倍晋三は慰霊の日の式典に出席するため(どの面下げて?)やってきて、普天間基地の「移設」を名目とする辺野古への新基地建設について、「最高裁の判決に従って進めていく」と言い放った。沖縄の民意など歯牙にもかけず、これまで以上に沖縄の軍事要塞化を推し進めるぞ、という意思表示である。
沖縄の未来のためにも、アジアの平和のためにも、何としてもこんな愚かな政権は倒さなければならない。
[1] 大城将保『改訂版 沖縄戦』 1988年 高文研 P.142
[2] 同 P.143-144
[3] 村上義雄『教科書裁判沖縄出張法廷』 朝日ジャーナル 1988年2月26日号 P.82-83
[4] 上原正稔訳編『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』 三一書房 1986年 P.20-22
[5] 村上 P.83-84
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