突然の昆虫食、それもなぜかコオロギ推しというニュースに反応して様々な意見が飛び交っている。
しかしこの件、色々な論点が混在しているので、順序立てて整理してみる必要があるように思う。
昆虫食それ自体の是非
まず、昆虫を食べることそれ自体の是非について。
実のところ、欧米や食の欧米化が進んでいる現代日本では昆虫食への忌避感が強いが、世界を見渡せば昆虫を食べる食文化は広く分布している。
マーヴィン・ハリス『食と文化の謎』によれば、北米やアマゾン川流域の先住民、中国や東南アジアの人々などは、伝統的に多くの昆虫を食べてきた。また、1930年代にラオスの食文化を調査した学者の報告によると、実際に食べてみれば、ラオスの人々が食べている昆虫は欧米人の舌にとっても決してまずいものではなかったという。[1]
一九三〇年代はじめ、W・S・ブリストウは、ラオス人の食生活のくわしい記述を残しているが、そのなかでかれは、ラオス人は昆虫やクモ類はいうにおよばず、サソリのようなほかの節足動物までも食べており、それは飢えをしのぐためだけでなく、それらの味を好んでいるからでもある、と主張している。(略)ブリストウは、みずからクモ、クソムシ、タガメ、コオロギ、バッタ、シロアリ、セミを試食し、次のごとくめざめたのである。
一つとしてまずいものなし。いくつかは実にうまい。なかでもオオタガメは特筆もの。ほとんどはなんの味もせず、ほのかに野菜の風味がするだけだが、しかし、たとえばはじめてパンを食べたら、だれだって、西欧人はこんな味もそっけもないものをなぜ食べるのかと、不思議に思うにちがいないのだ。焼きタガメとか半熟クモは、外側がすばらしくこうばしく、なかはスフレのごとくやわらかく、けっしていやな味ではない。(略)
日本でも、イナゴや蜂の子など、ある種の昆虫は昔から食べられてきた。また、戦前養蚕が盛んだった頃には、糸を取ったあとの蚕のサナギも養蚕農家にとっては貴重なタンパク源だった。
では、昆虫を食べるのは人間にとってごく自然なことで、欧米人や現代の日本人がこれを忌避するのは正されるべき偏見なのだろうか。
ところが、これは必ずしもそうとは言えないのだ。同じ『食と文化の謎』が、欧米人が昆虫を食べないのは、単に大型動物の肉というはるかに効率的なタンパク源が容易に手に入ったからだと説明している。[2]
(略)昆虫はつかまえやすく、重量あたりのカロリーと蛋白質の収益率は高いかもしれないが、大型哺乳類や魚にくらべて、また、げっ歯類、鳥類、ウサギ、トカゲ、カメなどの小型脊椎動物とくらべても、大部分の昆虫のばあい、それをつかまえ、料理して得られる益は非常に小さい。それゆえ、大型脊椎動物を手に入れる機会が少ない社会ほど、食物品目の幅が広く、そして昆虫類をたくさん食べるのではないのかという予想がたてられる。昆虫を食べるのにもっとも熱心なのは熱帯地域に住むひとびとである理由の一つは、それなのであり、そういう地域では、アマゾンで肉に対する飢餓感があることを話したときに説明したように、大型動物が少なく、そのうえ、たいていのばあい、小規模な集団が狩猟するだけでも、獲物はたちまち枯渇してしまう。その対極として、昆虫を食べることがなぜヨーロッパの食慣習には入らなかったのか、肉中心の欧米料理でその一翼をになうものにならなかったのか、その理由もわかる。フェルナン・ブローデルが中世以降のヨーロッパを「世界の肉食の中心」と特徴づけたことを思いだせば、豚肉、羊、ヤギ、烏肉、魚が豊富にあったために馬の肉を食べることが嫌われたのなら、まして昆虫を食べようなどと、いったいだれが思うであろうか。
つまり、肉や魚などの美味しくてタンパク質の豊富な食材が容易に得られる環境では、人間はわざわざ虫を捕まえて食べようなどとは思わないのだ。伝統的にたくさん昆虫を食べてきた人々というのは、そうしたタンパク源が得にくい厳しい環境の中で生きてきた民族や、社会の下層にいて肉や魚を滅多に手に入れられない人々だったわけだ。実際、日本でも、イナゴや蚕はもっぱら貧しい農村地帯で食べられてきた。
そういえば、『はだしのゲン』にもゲンたち一家がイナゴを食べるシーンがあった。町内会長の嫌がらせで麦畑を潰され、米や味噌も貸してもらえず、やむなくイナゴを飯代わりに食べる、という場面だ。[3]
要するに、人間にとって昆虫食を忌避する理由は別にないが、他に食べるものがあるなら積極的に食べる理由もまた見当たらないわけで、昆虫というのは、あなたが食べたいのならお好きにどうぞ、という程度のものでしかない。
持続可能な社会を実現するには昆虫を食べるべきなのか?
昆虫食を推進する人々が昆虫を食べるべき理由として主張しているのが、食肉を生産するために大量の農作物を家畜の餌として消費し、また膨大な温室効果ガスを排出する現代の畜産業は持続可能ではなく、より環境負荷の小さい昆虫食などの代替手段に変えていく必要がある、というものだ。
まず、この主張自体は大筋で正しい。
実際、家畜から排出される温室効果ガスは自動車、飛行機、船舶など運輸部門全体の排出量に匹敵するほどで、世界の温室効果ガス全体の約14%を占めていると言われている。またそれ以外にも、家畜の排泄物による水質汚染、放牧や飼料生産のための森林伐採、穀物や水の大量消費など、食肉生産は多くの問題を抱えており、今のような畜産業は到底持続可能とは言い難い。[4]
問題は、では昆虫食は食肉問題を解決するための正解なのか、ということだ。
牛、豚、鶏といった家畜に穀物を主体とする濃厚飼料を大量に食わせて食肉を「促成栽培」する現代の工業型畜産に代えて、より小さな環境負荷でタンパク源を供給する方法には、昆虫食以外にも植物由来の代替肉や食肉動物の細胞を培養して作られる培養肉といったものがある。
そして、環境負荷が低いという特長は同じでも、昆虫食と植物肉や培養肉との間には大きな違いがある。
それは、植物肉や培養肉は人間の食生活の中で畜肉を直接的に代替するものだが、昆虫食はそうではない、という点だ。牛肉のハンバーグやステーキの代わりに植物肉や培養肉で作った代替品を食べることはできても、コオロギの塊を食べるのは無理だろう。
つまり、肉の代わりに昆虫を食べるようになれば、日常の食の風景ががらりと変わることになるのだ。
もう一つの大きな違いは、味や食感、栄養の点で畜肉を代替できるような植物肉や培養肉を作るには膨大な投資と高度な技術開発が必要だが、昆虫を食品化するだけならそんなものは要らない、という点だ。食用コオロギの養殖は温度管理と衛生管理さえできればいいし、昆虫を使った食品の製造も、パンやスナックなどのメーカーが短期間に製品化できるほど容易だ。
これは一見昆虫食の優位性を示しているかのように見えるが、そうではない。コオロギのような昆虫を食品化しようとすれば粉末状にして他の食品に混ぜるくらいしか方法がなく、いま製品化されている程度のものしか実現できないのだ。
これに対して植物肉や培養肉は、以前は出来損ないのハンバーグみたいなものしか作れず価格も非常に高価だったが、技術の進歩に従って味も食感もどんどん改良され、既に大量生産を開始する段階にまで至っている[5]。 今後は3Dプリント技術の応用等により、高級肉に匹敵する、あるいは上回るものも実現できるようになるだろう。
昆虫食が普及した果ての未来の食の風景は?
ではここで、従来型の畜産に代えて昆虫食、または植物肉や培養肉が普及した未来の食の風景がどうなるか、想像してみよう。
植物肉や培養肉が広く普及しても、食卓の風景は特に変わらない。屠殺した家畜の肉の代わりに植物肉や培養肉が食材として使われ、今と同じような料理が作られるだけである。家畜由来の「天然物」の肉は、今のジビエのように、一部のこだわりのある人々だけが食べるものとなっていくだろう。
一方、昆虫食の場合はどうか。昆虫食が広く普及するということは、従来型の畜産による安価な肉の大量生産は続けられなくなり、少量の高級品だけが生産されるようになる、ということでもある。そうなっても富裕層は肉食を楽しむことができるだろうが、一般庶民には肉は手の届かないものとなる。
代わりに庶民が食べる(食べさせられる)のが、タンパク源として昆虫の粉やエキスを混ぜたさまざまな食品、というわけだ。例えば、それだけで人間が必要とするすべての栄養がとれる上にほのかに「エビのような味」のするパンとか、高価になりすぎたチャーシューを乗せる代わりに麺にコオロギ粉を練り込んだラーメンとかだろう。
敗戦後の日本が貧しかった時代、「貧乏人は麦を食え」と発言して大問題になった政治家(池田勇人)がいたが、畜産による環境負荷対策としての昆虫食推進とは、まさに「貧乏人は虫を食え」ということにほかならない。
昆虫食を推進する、いつもの怪しげな人たち
もちろん、そんなことを正直に言ったら大反発をくらうので、昆虫食の普及は慎重に進めなければならない。頭のいい官僚たちはちゃんとその方策を考えている。
学校給食で子どもたちにコオロギパウダーやコオロギエキスを混ぜた料理を食べさせる、というのもその一つだろう。子どもの頃から昆虫食に慣れさせ、虫を食べるのを普通のことと考える国民を増やしていこうというわけだ。今はごく一部の学校で選択制で提供されているだけだが、反発が小さければ徐々に広げていき、やがて全国の学校で強制的に食べさせるようになることは目に見えている。
また農水省の「フードテック研究会」では、昆虫食を含む新たな食を普及させるためには「社会受容を高めるための取組が重要」と指摘しており、この研究会の参加企業には、ちゃんと「電通」が入っている[6]。この研究会が扱う「フードテック」には昆虫食以外に植物肉や培養肉も含まれてはいるが、社会受容が最も困難なのは昆虫食なのだから、広告代理店を参加させている狙いは明らかだろう。
いつもの怪しい人たちが、ろくでもない目的のためにうごめいている、この国のいつもの風景というわけだ。
[1] マーヴィン・ハリス 『食と文化の謎』 岩波書店 1988年 P.200
[2] 同 P.214
[3] 中沢啓治 『はだしのゲン 1』 中公文庫 P.74
[4] GREENPEACE 『牛のゲップだけじゃない。肉の大量消費が引き起こす10の環境問題まとめ』 2021/7/5
[5] Gigazine 『世界最大の「培養肉工場」の建設がスタート、動物を1頭も殺さず1万トンの培養肉を生産可能』 2022/12/19
[6] 日刊嫌儲新聞 『政府・電通・パソナ等「昆虫食を社会に受容させ、社会に実装させる」』 2023/3/17