■ 「のりこえねっと」を貶める『ニュース女子』の日当デマ
TOKYO MX『ニュース女子』の沖縄ヘイトは、まさに誹謗中傷とデマの塊だった。虚偽情報で米軍基地反対運動に対する憎悪扇動を繰り返したあげく、反対運動は反ヘイトの市民団体「のりこえねっと」が金で操っており、その背後には中国や北朝鮮がいるかのように匂わせる陰謀論をぶち上げたのだ。
長谷川幸洋:ちょっと聞きたいのはお金ですよ。5万円日当出すなんて、これは誰が出してるの?
井上和彦:これ本当にわからないんですよ。「のりこえねっと」っていうところに書いてあって、で、連合会館で、御茶ノ水でやってるわけですよ。御茶ノ水でやってる。だから東京から、そういう反対派の人たちに、さあ一緒にみんなおいで、5万円あげるからと。まあ格安の格安のチケットで行きゃそりゃ行けますよ。
須田慎一郎:この辛さんていうのは在日韓国朝鮮人の差別ということに関して闘ってきた中ではカリスマなんですよ。もうピカイチなんですよ。お金がガンガンガンガン集まってくるという状況がある。
(ちょっとわかんないんですけど、中国が反対する理由は沖縄にアメリカ軍いなくなってほしいというのはわかるんですけど、韓国がそうやって沖縄に加わるのはなぜなんですか?)
上念司:親北派ですから。韓国の中にも北朝鮮が大好きな人たちがいますから。いま朴槿恵反対デモなんかやってる。
藤井厳喜:朴槿恵反対デモだって、チャイナの影響を受けた人たち、北朝鮮の影響を受けた人たちが主力で煽ってるのは確かなことです。
「のりこえねっと」の5万円は、高江の現場から生の情報を届けてくれる市民特派員を派遣するための交通費補助であり、反対運動参加者への日当などというものではない。その資金源も、良心的市民からのカンパである。『ニュース女子』は「のりこえねっと」への取材もせずにデタラメを垂れ流している。
■ よりによって辛淑玉氏を「親北派」呼ばわり
それにしても呆れるのは、「のりこえねっと」共同代表の辛淑玉氏を「親北派」呼ばわりする彼らの無知と不見識だ。
辛淑玉氏には『鬼哭啾啾』という著作がある。その冒頭、「はじめに」から一部引用する[1]。
人が死んで嬉しかったことがある。
知らせを受けたときの、なんとも言えぬほどの解放感、安堵感、そして、いくばくかの表現できぬ哀しみ……。
「これで、何でも語れる」
そう思った。
そのときの感情を言葉にして表現することは今もできない。
確かなのは、ただ、嬉しかったことだけだ。
(略)
一九六一年、父方の親戚と母の弟(四郎)が、一九六五年には父の叔父と、母の父(私の祖父)と、母のもう一人の弟(辰男)とその子どもが、「地上の楽園」と謳われた北朝鮮へ、片道切符で渡っていった。
(略)
一九六五年に渡った辰叔父は、連絡が途絶えたまま十四年が過ぎた後、生存しているとの知らせが平壌から朝鮮総連経由で届いた。最後の力を振り絞って、助けを求めてきたのだ。
しかし、最後までその血の叫びに応えることができなかった。
助けを求められれば求められるほど、私は逃げた。
もうやめてくれ!
私に何ができるというのだ?
叔父の話題になるたびに怒鳴り、叫んだ。
私は、私の人生をこれ以上苦しいものにしたくなかった。だのに、振り払っても振り払っても絡みついてくる。それは、悪い夢のようだった。
そして最後は、手紙を開くことさえなくなった。
ごわごわした質の悪い朝鮮の紙。その灰色の封筒の中に、語り尽くせないほどの涙が込められていることを、私は知っていた。それでも見殺しにしたのだ。
辛淑玉氏が生まれた年である1959年、在日コリアンを北朝鮮に送る「帰国事業(帰還事業)」が始まった。独裁政権下にある韓国に対して経済的・人道主義的優位性をアピールしたい北朝鮮と、国内にいる数十万の朝鮮人を厄介払いしたい日本政府の思惑が一致した結果始められた一大事業である。政府に日本赤十字社が協力し、野党も、マスコミも、右から左まで人道的事業だとしてこれに賛同した。
その結果、差別故に日本での生活が成り立たない貧しい人々を中心に、約10万人の在日とその家族(日本人配偶者やその子どもたちも含む)が、「楽園天国」と宣伝された、故郷でもない北の地(ほとんどの在日コリアンの出身地は韓国の領域内にある)に「帰国」した。
辛淑玉氏の親族の多くも北朝鮮に渡り、約20年のうちに全員死亡している。また、彼らが生きている間は、北朝鮮でも資本主義思想を持つ者として差別された彼らの命をつなぐために、求めに応じて苦しい家計の中からひたすら物資を送り続けなければならなかった。
辛淑玉氏自身、子どもの頃家族とともに帰国船に乗る直前までいっている。日本に留まれたのは、母方の祖母が「行くな」と生活資金を援助してくれたおかげだ。
2000年3月、辛淑玉氏はジャーナリスト石丸次郎氏とともに中国東北部の中朝国境地帯に入り、飢餓状態の北朝鮮から逃れてきた難民たち(その中には「帰国事業」で北朝鮮に渡った元在日もいた)の声を聞いている[2]。
『一日一食でも食べられればガマンします。それもできないから(中国に)出てきたのです』
『真っ黒な顔になるんですよ。腹が減って』
『豆腐なんかとても食べられない。おからを買って、それも高いから少しだけ。そして、草を入れて、木の根も入れて、ぶくぶくにして食べる』
『白米・豚肉・お酒を一度でいいから食べて死にたい』
淡々とした表情でその人は言った。『コッチェビ(物乞いで放浪生活をする人びと)はドロボウをしながら暮らします。生きるためにドロボウをするのですよ』
そう答えてくれた人の目には、表情がなかった。『高層では暮らせないですよ。どうやって上がっていくのですか』
一時、高層住宅に暮らせることは、素敵なことだったという。しかし、電気も水道もこない、エレベーターも動いていない高層の建物で暮らすことはできない。そんな階段を上がっていく体力は無いという。『一時間でできることを一日かけてやるのです』
賃金は支払われないが、労働現場には行かなくてはならない。しかし、まともに働いたらすぐ衰弱してしまう。ちょっとしたケガでも死に直結する。体力を温存するため、なるべく長くダラダラと仕事をするのだという。(略)
『日帝時代よりひどい』(ある老人)
『人間以下の社会とは、このことだ』
技術者だったというある人が私の目を見ながら答えた。
このような体験をし、このような活動をしている辛淑玉氏が「親北派」?
「寝言は寝てから言え」とは、このような者たちに対してこそ言うべき言葉だろう。
■ 自分並の存在としてしか他者を見られない人々
辛淑玉氏は、『ニュース女子』への抗議文の中でこう語っている。
私はなぜ、在日への差別だけでなく、さまざまな差別に声を上げるのだろうか…。
時に、自分でも不思議に感じる時がある。お金も、時間も、体力も、あらゆるものを犠牲にして、どうしてここまでやるのかと。もっと楽な生き方ができたはずなのにと言われたことも、一度や二度ではない。
確かなのは、被差別の歴史に共感する胸の痛みがあるということだ。
歴史や文化は異なっているが、ウチナンチュも在日朝鮮人も、日本の国家体制によって植民地支配を受け、人間としての権利を保障されず、排除・差別されてきた。
ウチナンチュは日本国籍を付与された一方で島ごと奪われ、沖縄戦では「国体」や本土の日本人を守るための捨て石にされた。敗戦後は膨大な米軍基地を押し付けられ、いまも命・生活・人間の尊厳など多くを奪われ、抑圧されている。
朝鮮人は、頼んでもいないのに帝国臣民にされ、日本兵の下請け・弾よけとして最も危険できつい労役につかされた揚げ句、敗戦後は日本国籍を一方的に剥奪され、国籍がないことを理由に戦後補償の対象から外され、「外国人」として排除、差別を受けてきた。
経緯に違いはあっても、植民地支配の対象とされてきた点では同じ位置に立たされている。
そして、私は「殺せ」と言われ、沖縄の友人たちは「ゴキブリ」「ドブネズミ」「売国奴」「土人」と言われ、まとめて「反日・非国民」とくくられている。沖縄で起きていることは、私にとって他人事ではないのだ。
彼らの痛みは私の痛みでもある。在日としてこの国に生を受けた以上、見て見ぬふりは許されないと私は思っている。
『ニュース女子』のような時の政権におもねるヘイト番組に出演し、ギャラをもらいながらデマを垂れ流す「簡単なお仕事」をしているような者たちには、自らの金と時間と体力を費やして他の被差別者のために闘う人々の心情など、およそ想像もつかないのだろう。他者を自分並みの存在としてしか見られないから、基地反対運動もどこかの黒幕から指示と資金を与えられてやっているとしか思えないのだ。
世の中は広いから、中にはこんな想像力に欠けた哀れな者たちがいるのも仕方がない。だが、そんな者たちを報道に関わらせてはならない。
[1] 辛淑玉 『鬼哭啾啾 -- 「楽園」に帰還した私の家族』 解放出版社 2003年 P.8-10
[3] 同 P.185-187