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捕虜の取り扱い方さえ教えられなかった日本兵

現地民に憎まれ米軍に救われた日本軍捕虜たち

大阪毎日新聞や東京日日新聞に勤めたジャーナリストで、敗戦時フィリピンで日本軍部隊とともに米軍に投降した石川欣一氏の『比島投降記』[1]が、青空文庫で読めるようになった。

これを読むと、フィリピンで日本軍がどれほど現地の人々に憎まれていたか、また、つい先日まで激しい殺し合いをしていたにもかかわらず、米軍が投降した日本の軍民をいかに丁重に扱ったかがよく分かる。

 昭和二十年九月六日、北部ルソン、カピサヤンにて新聞報道関係者二十三名の先頭に立って米軍に投降。(略)九時頃、自動車の爆音が聞え、大型のトラックが何台か現れた。それと前後して乗用車も着き、数名の米軍将校が日本の連絡将校と一緒にやって来た。M君の姿も見られた。間もなく、作業服の米兵が、チューイング・ガムを噛みながら、呑気な顔をして我々の前を歩いて過ぎ、引続いて武器の没収が終ると、トラックに四十人ずつだか乗れという命令が出た。(略)

 ある場所でトラック隊が停止した。前のトラックから米兵が連絡に来て「このさきの集落で昨日、比島人がトラックに石を投げ、日本のプリゾナーが数人怪我をした。同じことが再び起ってはならぬと指揮官はいっている。注意しろよ」と運転手と警乗兵に話した。こいつはひどいことだと僕は頸を縮めた。果してそこから百メートルばかり先の、家が五、六軒固まった所へさしかかると「バカヤロー、ドロボー」と待ってました!とばかりの声が飛んで来た。英語の出来るらしいのは「ジャパン・ノー・モール」といい、のぞき上げた二階では、醜い女が醜い顔を引きつらせて、右手で自分の首を斬る真似をしながら「何とかしてパタイ」と叫んでいる。お前等は首を斬られて死ぬんだといってるんだろう。バラバラと石や土塊が投げられ、警乗兵は銃を構えた。

 この時ばかりでなく、米国兵は実によく我々を守ってくれた。米国兵だけではない、比島兵も――比島兵が警乗したことは、僕はたった一度、ゴンサカという所へ行った時しか経験していないが――忠実に職務を遂行した。

 既にプリゾナーとなり、保護に身をゆだねた者は、どこまでも保護するという態度は、喧嘩相手が「参った」といって地に倒れた上は、それをいかに憎み怨んでいたにせよ、ツバをひっかけたり、足蹴にしたりしないという、フェア・プレイの精神のあらわれであろう。但し、地に倒れて「参った」といいながら、隙をうかがって足に食いついたりしたら今度は徹底的に敵をのしてしまうにきまっている。

 途中何度も何度もバカヤロー、ドロボーをあびせかけられはしたが、警乗兵のおかげで大した事故も起らず、我々はラロに着いた。ここの煙草工場が仮収容所になっている。(略)

 この行儀のよさも、感心したことのひとつである。用事があって、狭い通路を歩いて行く途中、日本の捕虜がウロウロしていても、決して突き飛ばしたり「そこをどけ」と怒鳴ったりしない。相手は捕虜なんだから、蹴飛ばしても一向差支えなさそうだが、多くの場合大きな身体を小さくして通るか、捕虜の方で気がついて横に寄るまで待っているかである。後から来てぶつかって行くのは、十中十まで日本人である。(略)

 この若い少佐が、所長なのかどうかは知らないが、とにかく、ここでの最上官だ。その人が自分で歩き廻って、向うから通訳になってくれぬかと頼んだことは、日本の軍隊とはまるで違う。僕の極めて僅かな見聞からしても、日本の将校はそんなことはしない。いばりくさって、兵隊を使いによこすぐらいが関の山だ。僕は自分の倅に毛の生えた程度の中尉や少尉、ひどい時には東北の、聞いたこともないような専門学校から学徒出陣をして来たという見習士官なんぞに、さんざんいばり散らされたり厭味をいわれたりして、不愉快な思いばかりして来た。(略)実際、考えて見ると、下らないことばかりやって戦争に負けたものだ。

食わせられない捕虜は「始末しろ」という日本軍

一方、日本軍による捕虜の取り扱いはどうだったか。こちらは中国で従軍し、下士官(技術軍曹)として敗戦を迎えた澤昌利氏の著書から当時の実情を知ることができる[2]。

 ここで、戦時捕虜についての筆者の経験を記しておきたい。

 まず、筆者が技術幹部候補生として陸軍工科学校に在学中、幹部教育の中で、戦場処理の捕虜をどう取り扱うかなどといったことは、一度も教育されたことはなかった

 だからブラッセル宣言はもちろんのこと、有名なハーグ条約や「陸戦の法規慣例に関する条例の付属書第二章の俘虜の項」やジュネーブ条約同付属書の「俘虜の待遇に関する条約の付属書」などのあることすら知らなかった。

(略)

 だから、私はもちろんのこと、日本軍兵士はすべて捕虜をどう取り扱えばよいかなど、知る由もなかった。軍幹部、将校などは知っていたかもしれないが、あえて知らぬ存ぜぬふりをしていたと思う。

 現に私の場合、山西省で作戦行動中、中国共産党直属の抗日八路軍の若い兵士の捕虜一人を駐屯地まで連れてゆけと命令されて預けられたことがあった。(略)

 彼は表面的にはすでに戦意を失っていたようだったから、後ろ手にしばられていた針金をはずし、腰縄にして楽に歩けるようにした。私の水筒から水も飲ませたし飯ごうの飯も半分与えた。これらは当時の私のはかない国際プロレタリア感覚の連帯意識からの処置だったが、それもさることながら正直いって捕虜が途中で倒れたら、それこそ「処置なし」だったから、無事に駐屯地まで連れてゆけるようにと考えたからの処置で、人間としての捕虜への配慮より、連行可能に配慮したことのほうが大きい。

(略)

 この捕虜に飲ます水をどう都合するのか、飯をどう都合するのかなどは部隊は何も考えていないし、すべて現地の私まかせである。私だって捕虜の一人ぐらいなら、飯も水もどうにか都合できるが、これが百人、千人だったらどうにもならない。

 現地兵士の食料だって軍が完全支給するわけではない。大体が「現地で適当に賄え」が大部分の処置だった。だから「捕虜の食い分など構っておられるか」であり「捕虜の飯はどうするか?捕虜の処置は?」と師団参謀に聞くと、「適当に処置しろ」が回答だった。「適当に処置しろ」ということは、手に負えなかったら適当に始末しろ、殺せということである。

 こうした背景の中で南京大虐殺は行われた。

 私の経験からいって、隊員10名ぐらいの分隊に捕虜の百人、千人も預けられたら全く「処置なし」でお手上げである。それに日本軍には捕虜取り扱いのマニュアルなどなかったし、捕虜取り扱い教育もされていなかった。こうした点では日本軍は始めから捕虜受け入れ態勢や準備工作などは皆無だったし、国際条約適用の処置分別はなかった。したがって日本軍の捕虜取扱法は当初から世界には通用しなかった。

戦争をすれば捕虜が発生する。当たり前のことである。ところが日本軍は、その当たり前のことへの物質的な備えも、精神的な備え(兵の教育)も、何もしなかった。

なすべきことをやらない一方で、兵には「死して虜囚の辱めを受けず」と捕虜になること自体を禁じ、日本を特別な神の国とする皇国史観で他のアジア諸国民を見下す人種差別観念を叩き込む。およそ近代国家の軍隊と呼ぶに値しないカルト軍団である。

そんなカルト軍団が暴走したのだから、大虐殺も全面的敗北も必然の結果だったのだ。
 
[1] 石川欣一 『比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦』 中公文庫 1995年
[2] 澤昌利 『戦争で誰が儲けるか』 スペース伽耶 2004年 P.146-148

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