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一枚の写真が見事に語る沖縄の怒り

写真の力というのは本当にすごい。

沖縄戦の「慰霊の日」である昨日(6/23)、摩文仁の平和記念公園で行われた「沖縄全戦没者追悼式」で撮影された一枚である。

画像出典:中日新聞(6/24朝刊)

たった一枚のこの写真が、理不尽な米軍基地の押し付けや有害無益な自衛隊配備を進める安倍自民党政権に対する沖縄の怒りがどれほどのものかを、雄弁に語っている。

【2017/11/27追記:東京新聞が報じたこの写真「沖縄の視線」が、今年の東京写真記者協会賞グランプリを受賞した。まことにふさわしい受賞で、喜ばしい。】

そもそも、なぜ6月23日が「慰霊の日」とされるのか。

沖縄本島南部、摩文仁の丘に追い詰められた第32軍の牛島満司令官は、1945年6月19日、最後の軍命令を発した。

全軍将兵の三ケ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり。然れども今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕たんせきに迫る。既に部隊間の通信途絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり。爾今じこん各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし。

そして4日後の23日、牛島は長勇参謀長とともに洞窟内で自殺し、沖縄での日本軍による組織的抵抗は終わった。

とはいえ、この日で沖縄戦がすべて終わったわけではない。国吉台地の地下壕に立てこもっていた山部隊第32連隊本部が投降したのは「玉音放送」より後の8月25日だったし、宮古・八重山の兵団指揮官が日本軍代表として正式に降伏調印をしたのは9月7日、北部の国頭支隊が降伏したのは10月1日だった。また、生き残った一人ひとりの住民にとっては、自分が米軍の捕虜となった日こそが「終戦」の日だった。[1]

だから、6月23日を一律に「慰霊の日」とすることには異論も多い。

しかし、戦況が絶望的となり、抵抗手段が皆無となった以上、降伏して住民と残存将兵の命を守るのが軍司令官として果たすべき責任だったはずだ。それをせず、「死ぬまで戦え」と命令したまま牛島が自殺してしまった結果、沖縄戦は終わりのない地獄となった。この日、6月23日は、日本が沖縄を最終的に見捨てた日であり、その意味ではまさに「慰霊の日」にふさわしい。

この日にそんな意味があることなど知るはずもなく、それどころか沖縄戦の概要を知っているかどうかさえ怪しいわが首相は、追悼式でも平然と自画自賛に終始した。(宮古毎日新聞 6/24

安倍首相は、沖縄に米軍基地が集中する現状について「到底是認できるものではない。負担軽減のため、一つ一つ確実に結果を出していく」と述べた。そして、昨年12月に北部訓練場の過半が返還されたことを具体的な成果として示した上で、「これからも『できることは全て行う』。沖縄の基地負担軽減に全力を尽くす」と表明した。

高江で、辺野古で、また宮古・八重山で、住民の意志を無視して基地建設を強行しながら、どの口がそれを言うのか。今年も「安倍は帰れ!」の怒号が飛び交ったそうだが、当たり前である。この男には沖縄の地を踏む資格などない。

[1] 大城将保 『沖縄戦 ― 民衆の眼でとらえる「戦争」』 高文研 1988年 P.142-144

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