敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者
意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]
日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万~200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万~200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。
日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。
1946年の食糧危機
しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。
敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]
結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]
戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)
「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)
「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」
そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。
画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」
朕はたらふく食っていた
この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200~1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]
午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。
「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」
と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)
※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)
皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。
案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]
(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)
すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。
このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]
- お通しもの
- 平貝
- 胡瓜
- ノリ
- 酢のもの
- おでん
- 鮪刺身
- 焼物
- から揚げ
- 御煮物
- 竹の子
- フキ
このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]
皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。
戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。
[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
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