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盧溝橋事件 -- 愚かな軍人たちの野望が地獄の釜の蓋を開けた

今日、7月7日は、日本では七夕くらいしか意識されていないが、中国では、日中全面戦争の発端となった「七七事変」の日としてはっきりと記憶されている。

東京新聞(7/5):

日中戦争の発端 盧溝橋事件80年
解釈には溝あるが… 「友好へ歴史忘れないで」

 北京郊外にある盧溝橋。一九三七年七月七日、橋の近くで夜間演習中の日本軍に向け、実弾が発射された。誰が発射したか不明なまま、翌朝に中国軍(国民党軍)と交戦。戦闘が拡大していった。

(略)

 戦闘のきっかけとなった銃弾は、日本では「中国軍兵士が偶発的に発砲した」という見方が多い。日本軍の自作自演説や共産党軍発砲説も一部にある。
 歴史ミステリーのように今も議論が続くが、盧溝橋そばの「中国人民抗日戦争記念館」研究員の都斌さん(35)は「中国では誰が発砲したかは重視していない。遅かれ早かれ、日本軍が攻撃してくるのは確実だった」と説明する。「それに、民家に銃を持った強盗が押し入ったとして、住民が先に撃ったかどうかが重要でしょうか

(略)

 今のぎくしゃくした日中関係と同じように、歴史解釈にも溝がある。現地を案内してくれた都さんが別れ際に突然、「日本では、なぜ今も侵略を認めない人がいるのでしょうか」と尋ねてきた。説明の時と違い、語気が強い。都さんの祖父は日本兵と戦い、負傷したという。
 戸惑う記者を見て、都さんが「私は中日友好を願っています」と続けた。「そのために歴史を忘れてはいけない。一人でも多くの日本人に盧溝橋を訪れてほしい」。表情は笑顔だが、もっと言いたいことを心にとどめているようだった。

上の記事中にもある、「中国軍兵士が偶発的に発砲した」のが事件のきっかけという見解は、日本での標準的な事件解釈と言っていいだろう。だが、この事件に関する限り、誰が発砲したかは重要ではないという中国側の見解のほうがはるかに正鵠を射ている。

「夜間演習中の日本軍に向け、実弾が発射された。誰が発射したか不明なまま、翌朝に中国軍(国民党軍)と交戦。戦闘が拡大」という説明を読むと、まるで日本軍部隊に対する実弾射撃への反撃として戦闘が始まったかのように見える。しかし、それにしては「夜間演習中」の攻撃に対する反撃がなぜ「翌朝」なのか?

この夜起こったことの経緯を要約してみると、次のようになる[1]。

 午後10時40分ころ、中隊長清水節郎大尉は、中国軍の陣地のある龍王廟の方角から数発の実弾が飛来し頭上を通過するのを感知したため、ただちに演習を中止し、部隊を集合させたところ、兵士一名がいなかった
 清水は、この事実を伝令で豊台の第三大隊長一木清直少佐に報告した。一木が、北平の第一連隊長牟田口廉也大佐に電話で連絡すると、牟田口は戦闘隊形をとって中国側と交渉するよう、一木に命じた。一木は、ただちに部隊を盧溝橋に出動させた。
 8日午前2時すぎ、一木大隊は盧溝橋に到着したが、行方不明であった兵士志村菊次郎二等兵はすでに集合20分後に帰隊していた志村は道に迷って龍王廟の中国軍陣地にちかづき、発砲されたものといわれる。

(略)

 午前3時25分ころ、また龍王廟方面で銃声がした。これは清水中隊長により豊台に伝令に出された2名が盧溝橋にもどったところ、清水中隊がもといた場所から移動していて見当たらず、龍王廟付近でうろうろし、中国軍に射撃されたものといわれる。
 しかし一木は「実弾射撃をやれば日本軍は演習をやめて逃げて行くという観念を彼等(中国軍)にあたえるのは遺憾だから」、牟田口に「断然攻撃したい」と電話し、「やって宜しい」といわれ、「軍の威信上奮起し」、夜明けをまって中国軍を攻撃したと、一年後の回顧座談会で得々として語っている。

※ 北京のこと。当時は南京が中国の首都だったため、北京は「北平」と呼ばれていた。

この二等兵はなぜ行方不明になったのか。このとき同じ部隊にいた兵士による貴重な証言がある[2]。

高桑 その志村はまだ初年兵なものだから、方向がわからないわけです。これはあとで聞いた話なんだけれど、志村は最初に出発した方向に迷って中国兵の前まで行ってしまったわけです。それで撃たれたという話であった。それが最初の三発か四発撃って、それで演習やるのにラッパを吹いたものだから、初めて今度は向こうは本格的に攻撃して来るのではないかと、支那軍はそう思ったのじゃないでしょうか。結局軍隊というものは規則が厳しいから、行けと言うところに行かないとしこたま叱られるわけだ。初年兵であればあるほど、叱られることをまず覚悟しておかなければならない。迷ったと言えばそれですむから、だから帰ることができなくて敵の陣まで行ってしまった、それで撃たれたのだと、私は聞きました。幹部に言うとそれは怒られるから、結局何も出てこないわけなんですどこの戦史にも何もないわけです。

引き起こした結果の重大さと比較すると、あまりにもバカバカしい。単に、闇夜で道に迷った兵士が中国軍陣地に近づきすぎ、威嚇射撃を受けただけなのだから、兵士が無事戻ってくればそれで一件落着だったはずである。だが、ここで中国側に一撃を加えて「軍功」を上げたいという愚かな指揮官たちの野望が、何でもない些細な出来事を大隊規模の軍事衝突にまで拡大してしまったのだ。

事件を引き起こした一木清直は、アジア太平洋戦争開戦後の1942年、「一木支隊」指揮官(大佐)としてガダルカナル作戦に投入され、重武装の米軍大部隊に少数兵力で白兵戦を挑んだあげく、戦死している。盧溝橋で攻撃命令を下した牟田口廉也は、1944年、今度は第15軍司令官(中将)として悪名高いインパール作戦を強行し、飢えに倒れた将兵の遺体が散乱する退却路が「白骨街道」と呼ばれたほどの惨状を現出させたが、本人は平然と戦後を生きて、1966年、77歳で死んだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.287-289
[2] 『歴史への招待(21) 昭和編』 日本放送出版協会 1982年 P.78-79

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