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72年前、イベントではない「フリー乗車DAY」があった

開通90周年を記念して、東急が池上線を今日一日無料にするというプロモツイートが流れてきた。

これはあくまで宣伝の一環としてのイベントに過ぎないが、敗戦後間もない72年前、そのようなものではない「フリー乗車」が京成電鉄で行われていたことを知っている人はどのくらいいるだろうか。

戦時中の酷使により、敗戦時にはどの鉄道会社の車両もボロボロになっていた。一方会社側は、戦後の混乱を理由に猛烈なインフレ下にもかかわらず従業員の待遇を改善しようとせず、車両の修理も不十分なまま危険車両の運転を続けさせていた。

これに対して京成電鉄の労働者たちは生まれて初めて労働組合を結成し、5倍の即時賃上げや団体交渉権の確立、会社が管理していた配給品の帳簿公開等を求めて全面対決を挑んだのだ[1]。

当時の『京成争議日記』 (久松照明・記)は書いている 。
「われわれの周囲には、数年間勤務して、日給一円五十銭というような従業員が無数にいた。一週間一日の休日をとると、月給四十円を割るのである。本給五倍になったとしても、月給は二百円になるかならぬかなのである。われわれは拍手しながら、この要求は決して不当でないことを心の中で繰り返した」

注:当時既に米のヤミ価格は1升で70円に達していた。

会社側との交渉はラチがあかず、組合はついに「タダ乗せスト」に突入した[2]。

 (1945年12月)10日午後5時半。組合はついに、読売争議の戦術にならって、「生産管理」闘争に突入した。
 各駅には次のような掲示が出た。
 「乗客の皆さまに対し、組合より親切無料奉仕を致します。但し、電車は故障修理のため運行数は減少しますから、あしからず……」
 翌11日始発から、電車83キロ、自動車490キロの全線にわたり、無賃輸送が始まった。“タダ乗せスト”である。
 「さあ、これからはオレたちの手で車を修理し、お客さんを運ぶんだ。会社のやり方とオレたちのやりっぷりを比べてもらおう」
 津田沼の車両工場で、車両修理の徹夜作業が動き出した。当時の副組合長・市原一郎(現在、千葉市社会党市議)は、
「戦時中の酷使で、どの車両も傷んでいた。モーターにガタがきている。ドアが動かない。ブレーキは甘い。窓ガラスもない。それを組合独自で修理する。組合が管理して、労働者の責任で客を乗せる以上、お客にあくまで安全を期さねばならないというわけで、大いに意気あがったんですね」
 という。それまでは生産サボタージュで、一日1、2両の修理がやっとであったのに、各班徹夜に次ぐ徹夜で、三日間に20両の修理をやってしまうほどの快ペースだった。
 11日から三日間は、一切の危険車両の運転をやめて、平常ダイヤの三分の一による無賃輸送とし、その間に故障修理作業を続けて、修理終了車をもってダイヤを補強していく形がとられた。戦後の混乱を理由に、労働環境、待遇の改善を積極的にはかろうとしない資本の生産サボ(サボタージュ)、経営サボに、労働者自身が対抗して生産主導権をにぎる。そんなところにも、生産管理戦術の一面はあった。
(略)
 ちょうど第一次農地改革の動きが進んでいるときでもあり(農地調整法改正公布は12月29日、翌年2月1日施行)、無賃乗車闘争は、沿線の農民運動関係者と労組とのつながりを強める効果をも生んだ。
「佐倉方面の農民から、よく米が届きましてね、どこそこから米一俵なんていうビラが組合本部にたくさん張られた。(略)支援の農民がタキ出しに来てくれるなんていうこともあって、闘いにもやりがいがありましたねえ」 (鈴木)
 14日――。組合の生産管理は有料乗車に切り替わり、新たな経営管理に移った。修理された車が、続々と運転に回される。組合の“生管”前は故障車続出で、平常ダイヤ運転も容易ではなかったのが、“生管”後は平常ダィヤ運転はもとより、三本の増発に、二本の予備まで用意する快調運行となった。
 突貫修理、増発運転、予備車整備……と重なったのであるから、労働過重のうえ、人手も不足したはずであろうに、組合員はかえって張り切って、公休まであっさり返上、連日フル運行に従事する熱心さであった。
“おれたちの手で経営している”という意識が、こんなにも彼らをふるい立たせたのだ
 と報じた当時の『毎日新聞』によると、売上高も日に日にアップ、その売上高は津田沼の争議本部にそっくりまとめられた。
 会社側は組合の“生管闘争”に大きく揺れた。度重なる大衆団交。会社幹部つるし上げ。
 “生管闘争”16日目、スト突入20日目――年も押しせまった12月29日、会社は組合要求のほとんどをのんだ。争議は組合側の全面勝利だった。

※ 車掌・京成電設労組青年部長

残念ながら、敗戦から翌年にかけて高揚した日本の労働運動はGHQの方針転換に伴って厳しく抑圧され、やがて大多数の組合は労使協調路線のもと、経営側の許容する多少の賃上げを求めるだけの御用組合と化していった。その行き着いた先が、正規・非正規雇用に分断され、過労死に至る長時間労働や結婚もできないほどの低賃金に追い込まれている現状である。

敗戦直後の「タダ乗せスト」とその画期的勝利は、闘わない者には何の果実も与えられないことを教えてくれている。この教訓を忘れてはならない。

[1] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.187
[2] 同 P.189-191

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