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天皇制の顕教と密教

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こちらの記事でも触れたが、維新の「志士」たちは天皇を「玉ギョク」などと呼び、自分たちの権威付けのための単なる道具と見なしていた。そこには天皇という存在に対する真摯な崇敬も、天皇その人への人格的敬愛もなかった[1]。

(略)なお、木戸孝允があの慶応三年の大政奉還から王政復古のころにかけて書いた手紙を見てみると、天皇のことを、かれらのあいだでは「玉」(タマ、ギョク)といっている。「玉を奪う」とか、「以前は玉を幕府側に奪われたためにクーデターに失敗したけれども今度こそはわが方で“玉”を握って離さないようにしなければならない」などという。倒幕派にとっては、天皇は、自分たちの立場を合法化するための一つのシンボルにすぎなかった。

一方で彼らは、被支配層である人民大衆に対しては、徹底的に神格化された天皇像を刷り込んだ。人民告諭や教育勅語、明治憲法などがその典型である。

つまり、人民大衆向けの表向きの天皇像と、明治政府を作った支配層が本音として抱いている天皇像という、二つのまったく異なる天皇のイメージがあったわけだ。この二つの天皇像の使い分けを、久野収はそれが天皇制というシステムの「顕教」と「密教」だったと指摘している[2]。

 注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤(注:伊藤博文)の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である。

 天皇は、国民にたいする「たてまえ」では、あくまで絶対君主、支配層間の「申しあわせ」としては、立憲君主、すなわち国政の最高機関であった。小・中学および軍隊では、「たてまえ」としての天皇が徹底的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、「たてまえ」で教育された国民大衆が、「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚に指導されるシステムがあみ出された

小中学校で徹底的な皇民化教育を受けてきた学生も、大学に入り、専門的な学問に触れるようになれば、嫌でも自分たちが教えられてきたことは真実とは程遠いものだったことに気づくことになる。

たとえば、戦時中の1943年に京都大学に入学した山田宗睦氏は、近畿天皇家ゆかりの地を、古事記を片手に実際に歩いてまわったときの経験を次のように語っている[4]。

山田 皇紀二千六百年のようなことに対して私は当時中学生だけれども、受けていた教育が教育だから何も疑問は持たなかったね。(略)神武天皇は実在していたと思っているし、綏靖・安寧全部いて、万世一系で昭和天皇まで来ているんだということも信じていた。(略)昭和18年10月に京都大学に入った時から、古事記を手にして古事記に書いてある通りに歩いて行くわけね。

 そういう点では非常に身近かに古事記・日本書紀はマスターしているわけですね。

山田 そうだ。本当にあったことだと思っているから、初代の神武天皇から始めて次の天皇はどこへ都したのか、どこそこと書いてあるのを見てそこへ行ってね、なんだ、ほんのちょっとこの部落から次の部落へ、都を遷したなんて、こんな……。

林 (笑)。

山田 自分で歩いてみて初めてね、なんていうか非常に規模の小さな歴史なんだっていうことが、分かる。大学へ入ってもまだ書いた通り信じているわけだから、それが実際にそうやって歩いてみることで崩れていくわけですよ。

 うーん。

山田 ああいうのはどういう体験かなあ。古事記そのものじゃなくて、古事記を読んで作られた天皇制イデオロギーを教えられているわけでしょう。だから古事記を読むことによってかえって習ったのとは違うじゃないか、という意識が出るわけですよ。何で女を奪い合って天皇がケンカをするんだとかね、何かそういうことが疑問になって出てくる。イデオロギーのこわさというか、古事記に書いてあることとも違うことを建て前として教えられていたのが、旧制高校で古事記を読んで少し違うんじゃないかと思いだす。そして京都大学へ入って、古事記を持って歩いてみたら、何だ日本の歴史ってのは何か引越し位の、都を遷したなんてのと違うじゃないかというふうに思い始めた。
一同 (笑)。

このような「密教」の秘儀を知ることになる学生たちに対しては、外部でそんな秘密をみだりに口外しないよう、あらかじめ口止めがなされることもあった[3]。

(略)神武紀元をみとめても、それがおよそ六百年ぐらいのばされていることは、徳川時代の学者も言い、明治時代になって那珂通世博士等がさらにくわしく考えて、今日では定説になっている。それだけのことでも世間に知らせてはならないと、東京帝国大学の国史学科では学生に忠告したことがある。1933年4月、時の名誉教授三上参次博士は、国史学科新入学生歓迎の席上で、新入生にむかい、紀元のことと南北朝のことを例として、大学で本当のことを勉強しても、教師などになったとき、それをそのまま生徒に教えてはいけないと言ったものである。三上博士は国史学会にー番勢力のあった人で、文部大臣候補者になったこともあるが、そういう人に支配せられて来たこれまでの大学の歴史学や一般の歴史教育が、いかにでたらめ千万であるかは、たやすく想像されるであろう。

人民大衆を狂信的な天皇制イデオロギーで駆り立てておいて、溢れ出るそのエネルギーを、そんなイデオロギーには毒されていない冷静な支配エリート層が国家経営に利用するという明治国家のシステムは、実に巧妙なものだった。このシステムに似たものがあるとしたら、教祖を熱狂的に崇拝する一般信者のエネルギーを、そんな信心など実は持たない教団幹部が金と権力を得るのに利用する、カルト宗教のそれだろう。

しかし、そんな異常なシステムが長続きするはずもない[5]。

 ただ、天皇への翼賛と輔弼のシステムの中で、軍部と衆議院だけは、伊藤の苦心にもかかわらず、それぞれちがった意味においてではあるが、サイズのあわない歯車として、ぶきみな音をたてつづけた。

 軍部だけは、密教の中で顕教を固守しつづけ、初等教育をあずかる文部省をしたがえ、やがて顕教による密教征伐、すなわち国体明徴運動を開始し、伊藤の作った明治国家のシステムを最後にはメチャメチャにしてしまった。昭和の超国家主義が舞台の正面におどり出る機会をつかむまでには、軍部による密教征伐が開始され、顕教によって教育された国民大衆がマスとして目ざまされ、天皇機関説のインテリくささに反発し、この征伐に動員される時を待たねはならなかった。

 この連合勢力の攻撃に直面したとき、明治の末年以来、国家公認の申しあわせ事項であった天皇機関説、明治国家の立憲君主的解釈は、天皇自身の意志に反してさえ、一たまりもなく敗北させられたのである。国民大衆から全く切りはなされた密教であるかぎり、この運命はまことにやむをえなかった。密教は、上層の解釈にとどまり、国民大衆をとらえたことは、一回もなかったのである。

維新の「志士」たちは、自分たちが作り上げた天皇制絶対主義国家を、芸術品のように見事なものと考えたかも知れない。しかし彼らは、数十年を経て一般大衆のほとんどが皇民化教育によって洗脳され尽くし、同様に「顕教」を信奉する軍人たちが陸海軍の要部を占拠するようになったとき何が起こるかを、予想できていなかった。

破滅の種は、明治国家というシステムの中に、最初から仕込まれていたのである。

[1] 井上清 『人民史観から見た維新、天皇制』 梓書店 1990年 P.117-118
[2] 久野収・鶴見俊輔 『現代日本の思想』 岩波新書 1956年 P.131-132
[3] 井上清 『天皇制』 東大新書 1953年 P.3
[4] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一書房 1994年 P.132-133
[5] 『現代日本の思想』 P.133-134

 

 

現代日本の思想―その五つの渦 (岩波新書 青版 257)

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