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岸田吟香「御巡幸の記」に見る明治初期民衆の天皇認識

暗愚な国難首相の明治礼賛

今年は明治維新から150年だとかで、この愚かな首相を筆頭に、明治礼賛のプロパガンダが巷にあふれることだろう。

首相官邸HP 総理大臣年頭所感

 新年あけましておめでとうございます。
 本年は、明治維新から、150年の節目の年です。
(略)
 150年前、明治日本の新たな国創りは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました。
 国難とも呼ぶべき危機を克服するため、近代化を一気に推し進める。その原動力となったのは、一人ひとりの日本人です。これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から解き放つ。あらゆる日本人の力を結集することで、日本は独立を守り抜きました。
(略)
 未来は、私たちの手で、変えることができるのです。
 すべては、私たち日本人の志と熱意にかかっている。150年前の先人たちと同じように、未来は変えられると信じ、行動を起こすことができるかどうかにかかっています。

明治「維新」とは、徳川政権から薩長の下級武士勢力が権力を奪った軍事クーデターに過ぎない。そんな下克上の政権奪取を正当化するため、彼らは天皇という空疎な「権威」を徹底的に利用し、異常なカルト国家を作り上げた。その必然的な帰結が「維新」からわずか77年後の破滅的敗戦である。

今、その敗戦から72年を経て、長州勢力の末裔に当る安倍が、この国を再び明治並の前近代国家に引き戻そうとしている。これこそ国難と言うしかない。そんな悲惨な未来を変えられるかどうかは、まさに「日本人の志と熱意」にかかっている。

天皇になど関心のなかった明治初期の一般庶民

「維新」以来150年、敗戦を経ても基本的には変わらなかった天皇制美化教育の結果、大半の日本人は、明治以前から天皇は尊崇されてきたかのように思い込まされている。だが、これは事実ではない。武士階級や尊皇思想にかぶれた一部の豪農層などは別として、一般の庶民にとっては天皇などそもそも知らないか、知っていても自らの生活には関係のない存在に過ぎなかった。

それどころか、明治維新の「志士」たち自身、天皇を「玉ギョク」と呼び、自分たちの権威付けのための道具としてしか見ていなかったことがよく知られている[1]。

 天皇を絶対君主にしてしまった志士たちは、自分たちの反幕闘争の「大義名分」として「勤王」をたかくかかげていたが、彼らは現実の天皇その人にたいして愛と心からの忠順をもっていたのではない。そのことは彼らが孝明天皇の明白な意志にそむき、はては宮廷に大砲をうちこんでまでも天皇の欲せざることをなしとげようとしたことに何よりもよく現われている。倒幕派の最高首領たちは天皇のことを「玉」という隠語でよんだが、じっさい彼らは天皇を現実の人格として尊敬したのではなく、自己の手に獲得すべき玉として、彼ら自身の権力の源泉としか考えなかったのである。

とはいえ、被支配層である人民大衆には、自分たちの権力の源泉である天皇の権威を絶対的なものとして信じさせる必要があった。成立したばかりの明治政府は、そのための教育宣伝に大変な苦労をしている[2]。

 成立早々の新政権は(略)「天皇親政」や天皇の神的権威を宣伝するのにあらゆる手段をつくした。(略)民衆は天皇とは何ものかも知らないので、これに天皇を宣伝するには政府もよほど苦心した。

 六八年 (明治元年) 三月新政府の九州鎮撫総督が管内の人民に発した諭書には、「此日本いう御国には、天照皇大神宮様から御つぎ遊ばされたところの天子様というものがござって、是が昔からちっとも変ったことのない日本国の御主人様じゃ、ところが七八百年も昔から乱世がつづき、色々の世の中には北條ぢゃの足利ぢゃのという人が出て来て、終には天子さまの御支配遊ばされた所を皆奪い取り己が物にしたれども、天子さまというものは、色々御難儀遊ばされながら、今日まで御血統が絶えず、どこまでも違いなき事じゃ。何と恐れ入ったことじゃないか」と、「天子様というもの」を人民に紹介し「何と恐れ入」らせねばならなかった

 千年以上も天皇のひざもとの京都府でも、六八年十月、当局はとくに日本は「神州というて」、「天孫」が国を開き天孫の血統今につづきその「御恩沢」が深いのに報い奉る志がなくてはならぬとおしつけておき、次に「かく申せば一銭の御救に預りしこともなく一点の御厄介になりしこともなく、わが働きにてわが世を渡り、さらに御国恩を蒙りたる覚なしと思ふ者もあらんかなれど」と、問わず語りに京都府民が天皇を有難くとも何とも思っていないことを役人自からがばくろした。なおこの「諭告」の漢字にはすべてかなをつけ、意味をかなで注するなど用意周到である。

 六九年(明治二年)二月(旧暦)、戦乱の終ったばかりの奥羽各地では、人民が旧政府にまさる天皇政府の搾取と圧政に反抗して一揆・世直しをするので、政府は一の諭告を発した。その中に「天子様は天照皇大神宮様の御子孫にて、此世の始りより日本の主にましまし、神様の御位正一位など、国々にあるも、みな天子様より御ゆるし被遊候わけにて、誠に神さまより尊く……」という(以上、「明治文化全集』雑史編雑纂)。天子様は「正一位稲荷大明神様」よりもえらいのだと教えてやらなければ、人民には天子様がどんなものかもわからなかったのだ。

天皇の「見える化」手段としての地方巡幸

このような教育宣伝の一環として、明治初期には天皇の地方巡幸が盛んに行われた。巡幸は、それまでほとんど不可視の存在だった天皇を「見える化」し、人民大衆に具体的な形のある権威として天皇の存在を認識させるための手段としてどうしても必要だったのだ。

画像出典:[3]

それぞれ半月から二ヶ月もの期間をかけて行われた「六大巡幸」のうち、1876(明治9)年の東北巡幸には、当時東京日日新聞の編集長だった岸田吟香が随行し、リアルタイムに「御巡幸の記」という記事を連載している。新聞記者の目から見た巡幸の記録として貴重なものである。

岸田吟香「御巡幸の記」に記録された一般大衆の天皇認識

他の巡幸と同じく、東北巡幸も絶対的権威としての天皇の存在を地方の人民に知らしめることを第一の目的として行われたので、巡幸先では地方行政機関を通じた様々な演出と動員が行われ、天皇一行を各地で大群衆が「奉迎」する図が作り出された。たとえば下の挿絵は6月13日、福島県南部の川面という小村で、付近一帯の小学生を大量動員した「奉迎」の様子を描いたものである[4]。

 

六月十三日快晴午前七時芦野を御発輦はつれんありて(略)芦野より北に川面といふ所あり 戸数僅わずか二十戸ばかりの小村なり 此所に左に図するごとき木札を建て 小学校の生徒が七八才より十才ばかりの小児を前へ立て 其うしろは十二三才また其うしろは十四五才と背の丈によりて順を立

 行儀よく並んで拝見に出たり 人数を問へば二千人あまりにて白河其他の村々の小学生徒を集めたるよし 衣服の美なるは東京の人にも劣らず宇都宮以北には曽かつて見ざりし美装なり 男児は黒の洋服にて揃いたるも二三(1字不明)あり其他は何れも絹の袴羽織にて 女児は七八才より十四五まで皆美しき衣服と袴を着したり(中にも十五六才の娘は西洋の女服を着して蝙蝠こうもり傘をさして居たりしは東京といへどもあまりに見なれざる所なれば尤もっとも目立たり) ◯福島県の学校にお世話の届くは予かつても聞て居たりしが今この生徒の振舞ひの一事を見ても平日教育の厳おごそかなるを見るに足れり

しかし、このような動員ではなく、民衆の日常生活の場にたまたま巡幸の列が通りかかったような場面では、天皇になど別段関心を持っていない人々の様子が見事にとらえられている。

6月5日 栃木県石橋付近[5]:

五日午前七時小山駅を御発輦ありしが今日は天気もよく途中の村々で国旗を立たると拝見の人の群集は昨日に同じ 正午十二時石橋駅の寺を行在所と遊されて御昼食なり 此辺の拝見人は並木の両側に草を敷て石に腰をかけ うつくしと見ゆる小娘が大きな握り飯をかぢるもあり いかめし気なる親父が瓢たんから酒を出して飲むもあり 都て女は頭に緑もえぎ色の切れをかけ同じ色の紙のかんざしを差てゐる 是は東京から流行はやりて来たりと云ひ伝ふ

6月30日 宮城県仙台北方七北田付近[6]:

◯六月三十日正午十二時仙台の行在所を御発輦あり(略)一里余にして七北田と云ふ処に着し給ふ(略)程なく御発輦にて田野山林の間を過ぎ給ふに 拝見人も処々に居れどもみな股引をはきたる娘や鎌鍬を携へたる農夫どもにて 泥足を田の畔くろに並べ 草に居り敷き石に腰掛けなどして 丸裸の赤子を背負ひたるまま背中より脇の下へ小児の頭を引出し乳を呑する婦人などもあり 顔も足も泥によごれたるまま昼寝せしがソレ御通りぞや拝まぬかと俄にわかに叩き起されて目をこすりながら鳳輦ほうれんを拝するもありてと可笑をかしき事どもなりき

明治新政府の総力をあげての教育宣伝にまだ毒されていない民衆にとっては、天皇の行列など、握り飯をかじったり酒を飲みながら物見遊山気分で見物し、あるいは小役人に叩き起こされでもしない限り昼寝したまま近くを通り過ぎても構わない程度の代物だったわけである。

ちなみに、この巡幸の出発時には群衆が立錐の余地もないほど道筋の両側に充満し、家々は国旗を掲げ、近衛兵の奏楽の中を出門するという盛大さだったとされているのだが、巡幸を終えての帰京時の様子は次のような寂しいものだった[7]。

聖上は一昨二十日午後八時四十分横浜港へ御着艦に成り此時各国の軍艦よりも烽火を揚て祝し(略)

昨二十一日早朝に改めて各国軍艦より祝砲をはなちたり(略)

十二時すぎ皇居へ着御あらせられ宮内省にて諸大臣を始め奏任以上華族へ御酒肴を賜り判任より等外まで酒肴料を賜りたり

昨日東京にては拝見の人も甚だ少なく朝より戸々に国旗を掲げたれども八時過ぎの雨にて俄に取り込みし家有りて殊の外淋しかりき


[1] 井上清 『天皇制』 東大新書 1953年 P.226
[2] 同 P.228-229
[3] 多木浩二 『天皇の肖像』 岩波新書 1988年 P.76
[4] 岸田吟香 「御巡幸の記」 東京日日新聞 1876年6月16日付
[5] 同 6月7日付
[6] 同 7月5日付
[7] 「雑報」 東京日日新聞 1876年7月22日付

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