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長崎平和祈念像の作者も「かわいそうなぞう」の作者もリアル鮫島伝次郎だった件

■ 平和祈念像の作者がこんな人物だったとは

私もこのツイートで初めて知ったのだが、これでは、この像を作った北村西望はリアル鮫島伝次郎と言われても仕方がないだろう。

www.nishinippon.co.jp

 台座と合わせ高さ約13メートル。青銅製の巨大な祈念像は南島原市出身の彫刻の大家、故北村西望が長崎市から制作の委託を受け、被爆10周年に当たる1955年8月に完成させた。以後、8月9日の平和祈念式典は毎年、祈念像前で開催。像は被爆地「祈りのナガサキ」の代表的なイメージとして世界的にも知られる。

 ただ、11月に長崎を訪問するローマ法王フランシスコは、81年2月に来崎した当時の法王ヨハネ・パウロ2世に続き、祈念像には立ち寄らない。

(略)

 バチカン側の真意は不明だ。しかし、原爆が投下された浦上地区出身のカトリック信徒の中にも、祈念像に対する違和感を抱く人たちがいることも事実だ。

 長崎新聞の元論説委員長、高橋信雄さん(68)によると、浦上教会の主任司祭だった故川添猛神父は生前、高橋さんの取材に対して「私自身は平和祈念像の前には決して行かない」「巨大な芸術品の前で祈りをささげることなどできない。いくら像の名前に平和を冠していても、被爆者として、あの像とは相いれない」と語っていたという。

 1865年の「信徒発見」。神父に信仰を告白した旧浦上村の潜伏キリシタンの一人、森内てるの5代目の子孫で、被爆2世でもある森内慎一郎さん(71)=佐賀県小城市、弟の浩二郎さん(66)=長崎市=も、祈念像を「巨大な芸術品」と例えた川添さんの思いに共感を寄せる。

 入市被爆者として亡くなった両親、慎一郎さん、浩二郎さんとも祈念像前での平和祈念式典に出席したことはない。毎年8月9日、原爆投下時刻の午前11時2分は、浦上天主堂や爆心地公園の原爆落下中心地碑の前などで祈ってきた。

 「人それぞれに感じ方が違うと思いますが(像のもとで祈りをささげることに)私はやはり抵抗があります」と浩二郎さんは言う。

(略)

 北村は戦前戦中にわたり、戦意高揚のための軍人像などを数多く手がけた。

 反核、反戦の美術評論家、故針生一郎氏は、北村について「戦後一転して平和や自由をうたいあげる公共彫刻に意欲を燃やしたが、戦前戦中の自作についての深い反省もなく百余歳まで生きたので、各地に醜悪無残な彫刻公害を残している」と酷評。その代表格が、北村の戦前戦中の作風そのままの男性裸像、平和祈念像ということなのだろう。

 長崎市が慰霊塔の建設構想を持っていることを知った北村は自らを売り込み、「奈良の大仏に倣ってできるだけ大きな男神像をつくるべきだ」と主張。完成後に記した「国宝として残るようなものにしたいという一心から…数千年の後までもこの像とともに、私は死なずにすむ」という一文には名誉欲があらわだ。

 作者の願望通り、祈念像は奈良の大仏にも負けない観光名所としては定着。その一方、北村が掲げた「宗教、人種、国籍を超えて、あらゆる人に受容される」像ではないこともまた明らかだ。

(略)

 祈念像の周りをぐるりと歩くと、像の裏には北村の言葉が刻まれ、こんなくだりもあった。「山の如き聖哲 それは逞(たくま)しい男性の健康美」。祈りとはかけ離れた異質なもの。38年ぶりの法王不在は、それをあらためて映し出す。(長崎総局長・山崎健)

■ 鮫島伝次郎とはこんな人

ちなみに、鮫島伝次郎というのはマンガ『はだしのゲン』の登場人物で、戦時中は中国や朝鮮の人々と仲良くしなければならないと公言して戦争に反対するゲンの父親を敵視し、ゲンたち一家を「非国民」だと徹底的にいじめていた町内会長である。

それが、戦後はころりと手のひらを返して、自分は昔から戦争反対だったと言い出し、政治家に転身した。ある意味、当時における典型的な「普通の日本人」である。

■ 「かわいそうなぞう」の作者もリアル鮫島伝次郎

この手のリアル鮫島伝次郎といえば、もうひとり思い当たる人物がいる。童話『かわいそうなぞう』の作者、土家由岐雄だ。

1970年代、『かわいそうなぞう』は200万部を超える大ヒットを記録し、小学校の教科書にも採用され、戦後の平和主義を代表する「反戦童話」「平和教材」となった。

しかし、実話を題材にしたとされるこの物語には重大な事実の歪曲があり、それはこの作品だけの問題にとどまらず、戦後「平和教育」自体の致命的欠陥にもつながっていた。この点については、以前こんな記事を書いている。

この『かわいそうなぞう』ばかりが有名な土家由岐雄だが、彼は実際には既に1930年頃から児童文学作家として活動していた。では、土家は戦前戦中にはどんな作品を書いていたのか。その代表作と言えるのが、「少国民小説」と銘打たれた『昭南島』(1943年)だろう。(この作品は国会図書館デジタルコレクションで公開されているので、誰でも読むことができる。)

昭南島とは、日本の軍事占領下におけるシンガポールの呼び名だ。この小説は、イギリスの植民地だったアジア太平洋戦争開戦直前のシンガポールを舞台に、当地で病院を経営する在留日本人の息子「正夫」が、イギリスに反感を持つインド人やマレー人の友人たちと一緒にジャングルで大冒険を繰り広げる物語である。

物語の冒頭、正夫が、開戦に備えて日本から本国に引き揚げるイギリス人少年の演説会に乗り込む場面はなかなか興味深いので、少し長くなるが引用する。

 少年会館には、シンガポールに住む各国の少年たちが、もう、ぎっしりとおしよせていて、開会前の一ときを、そこに一団、ここに一かたまりとなって、親しい者同志語りあっているのでありました。
(略)
 やがて、それらの少年たちに、りんりんとベルが鳴りひびくと、黒い顔、黄色い顏、白い顔が会場の座席を、たちまちうづめつくしてしまったのでありました。
 まもなく、盛んな拍手のなかに、日本からイギリスへ帰る十四五歳の少年が、頬にりんごのやうな色を浮かべて、波をうたせた金髮と、白い半ズボンに背広服で、正面の高い席に上ると、頭上の飾電灯は一段とあざやかに少年の姿を照らし出したのであります。
 しっかりと、左手でテーブルの端をつかむと、右手を空中にふって、彼は、イギリスを代表して立つ少年のやうな態度で、演説をはじめたのでした。
 『満場の少年少女諸君。私は栄誉あるイギリス大帝国の一少年であります。今回、はからずも巻きおこった、第二次ヨーロッパ戦争に際して、祖国のために銃をとって立った父につれられて、ただいま、日本からイギリスへ帰国するその途中であります。日本に住んだ過去五年間の、日本の印象について、これからお話をいたしたいと思ひます。』
 場内、千余名の各国少年たちは、一樣に上半身をぐっとのり出して、今こそ全世界に輝く日本を、しつかりとつかみ知らうと身がまへて、つぎの言葉を待ちかまへたのであります。
 『諸君、御承知のとほり、日本は、いま支那と戦ひ、連戦連勝をほこってをります。また、新しい東亜建設のために、国をあげての、くわっぱつな働きをお見せてをります。しかしながら、これからの日本は、もはや、なんら恐れるには及ばないのであります。
 この一言に、物音一つしない会場は、さらに密林のやうな不気味さを加へて、しんと静まりかへったのであります。
 イギリス少年は、さらに熱をもって、演説をつづけるのでありました。
 『現在の日本の強みといふのは、どこから来ているかと考へますに、それは過去の、日本の大戦によって得た、一つの信念にもとづくものであります。即ち、日清、日露の、あの国難を体験して来た父母の教養のもとに育てられた少年たちが、現在の日本に成長して活躍しているからであります。しかしながら、今後の日本は、断じて恐れるには及びません。なぜならば、日本は今、かいびゃく以来の大きな国難に直面しているにもかかはらず、祖国の隆々たる国運に安心しきった青少年たちは、未だに自らの危機を知らずに、生かせば国力となる貴重の時間を、ただうかうかといたづらに過しているのであります。(略)
 少年は、テーブルの水さしから、コップに水をついて、おもむろに飲みほすと、大英国にうまれた幸福を示すかのやうに、ひとわたり場内を、いういうと、見まはしたのであります。
 正夫は、初めて聞く祖国の人の態度に、きりきりと痛んでくる胸を力強く腕ぐみでおさへて、冷静に考へたのであります。
 嘘だ、祖国の姿は絶対にそんなものではない。我々海外に住む同胞でさへも、朝に夕べに波濤のかなた、東方を遙拝して、質素、倹約をむねとして、しかも精神、体力を充分に養ひ、銃後国民としての御奉公に努めているではないか。祖国の少年少女たちが、靴もなく、下駄もなく、す足でたくましく通学しているといつぞや聞いたとき、我々在留邦人はことごとく日本人クラブに集まって、そのいぢらしさに、一晚声をあげて抱きあって泣いたではないか。(略)海外においてさへもこのやうな心がまへであるのに、まして日本に住む者が、なんでこの際、むだな生活が出来るものであらうか。(略)このイギリス少年め、何をいふか。
(略)
 『――それでありますから、我がイギリス、及びアメリカが愛する支那は、たえず、ひるまず、長期抗戦をつづけてをれば、最後の勝利を、その頭上に、輝き得ることは明かなことであります。この会場にをられる、約半数以上の支那少年諸君、覚悟は充分に出来てをりますか。日本などは恐れるに及びません。なほこの会場に日本の少年諸君がをられるなら、その言ひ分をききませう。』
 先刻からこぶしをにぎっていた正夫は、千余人の視線をあびて、静かに立ちあがると、正面に叫んだのであります。
 『私は日本人であります。我が大日本帝国は、君らイギリスなどがいふやうな、隣邦支那と戦っているのではありません。支那とともに、共存共栄の大東亜を今こそつくるために、支那の害虫、蒋介石と戦っているのであります。これは、世界を一つの家とする日本の大理想を実現しようとするもので、東洋人には理解が出来ても、アメリカ及びイギリス人にはたうてい理解することの出来ない大精神であります。』
 わっといふ大勢の叫び声が、場内にばくはつしました。マライ、インド、タイ国の少年たちが、そこここに立ちあがって、しきりに手を打ちはやしたのであります。
 ややあわてたイギリス少年は、前方の席にある一少年支那人を指すと、やさしい声を出して救ひを求めようとしたのでした。
 『では、支那のお方。あなた方は、どうお考へになります。』
 白いつめえりの服をきちんと着た、眼元のすずしいその少年は、かすかに笑みをふくんで立ち上りました。
 『支那は、いま新しくうまれかはりつつあります。我々支那人は、東洋平和のために、また東洋が共に栄えるために、大きな希望をもって、いま、大日本と手をくんで、共に足なみをそろへて進みつつあります。イギリスこそは、東洋から一刻もはやく、手を引くべきであります。東洋の天地は、わが東洋人が住むために、神からあたへられたものであります。』
 きっぱりと言ひきったその声に、床板をふみ鳴らして手をたたく者。かん声をあげて壁を打つ者。その中に叫び合ふ数十ヶ国の言葉が、円天井にどうどうとひびきわたって、会場は大こんらんにおちいってしまったのでした。

正夫の主張は、まさに当時の日本政府が盛んに宣伝していた「大東亜共栄圏」の論理そのものだ。また、(架空の)東南アジア諸国の少年たちや、(同じく架空の)中国人少年にまで日本を讃えさせるこのやり方は、今この国にはびこる歴史修正主義者たちによる同種の手法の元祖と言ってもいいだろう。実際、この場面以外にも、土家は冒険譚の合間合間に、マレー人やインド人による日本への感謝や礼賛の言葉を挟んでいる。(下はシンガポールに侵攻する日本軍を歓迎するマレー人少年たちの挿絵。)

要するに、架空の飼育員に、象の死体にとりすがって「せんそうをやめろ!」と叫ばせた『かわいそうなぞう』の作者には、実は確たる平和思想もなにもなく、彼は単にその時その時の時流に合わせて受けの良い話を書いていただけなのだ。『かわいそうなぞう』と同じ作者だと思うと、この小説の「あとがき」にも、実に味わい深いものがある。

あ と が き
  ―― 少国民諸君へ ――


 この「昭南島」は、ある少国民雑誌へ「シンガポール」といふ題で、十五ヶ月間連載したものです。

 私がこれを書きはじめたのは、大東亜戦争が起る半年以上も前のことで、その頃、私は全身の血をたぎらせて、にくい米英と心の中で戦ひながら、この物語りを書いていました。そして、いま日本が世界のどんな立場にあるか、また、日本に対して、米英どもがどんなことをたくらんでいるかを、この中にわかりやすく書き入れて、一刻も早く、諸君が私とともに、腹の中で、まづ米英と戦ってくれるやうにと力をそそいだのであります。

 ところが、我が国は、それまで押さへに押さへていた堪忍袋のをを、つひに断ち切ってその米英どもに宣戦布告すると同時に、いきなり真珠湾の敵をたたき伏せて、皇軍をマライ半島に上陸させるが早いか、イギリスが誇るシンガポールなどは、予定のとほり占領してしまったのであります。ですから、その時雑誌に連載中の九ヶ月目からは、「シンガポール」といふ題も「昭南島」と輝しく改めて、今またこの本の題ともしたわけです。

 私は戦ふ日本の童話作家の一人として、兵隊さんだけに手柄をたてさせておくわけにはいきません。やはり諸君と同じやうに、種々なことに力をつくして、敵に二度とは立ち上れないほどの打撃を与へるまで、これからも力一ぱいペンをとって戦って行く覚悟です

 諸君も、兵隊さんや僕などに、決して負けないでぐわん張って下さい。物すごい戦ひはさあこれからです。

 

昭和十八年初夏

    東京市本鄉区本鄉五丁目四五
      土 家 由 岐 雄 

むしろ問題なのは、このようなリアル鮫島伝次郎を立派な平和主義者扱いしてしまう、評価する側の甘さなのだと言わざるを得ない。

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