先日TLに流れてきた、南京大虐殺否定論者によるツイート。
大虐殺されながらお菓子をもらって笑顔になってしまう中国人さん
— テリマカシ 。。 (@terimakasih0001) December 1, 2021
虐殺しながらお菓子を配るとか、日本兵はホント恐ろしいですね。
(?????) #南京大大大虐殺 pic.twitter.com/wUnxFhWsj9
この写真は「南京陥落一週間後」と題して『アサヒグラフ』1938年1月19日号に掲載されたうちの一枚だが、当時この手のプロパガンダ写真や国策ニュース映画がどのようにして撮影されたか、そのトリックを南京安全区国際委員会のジェームズ・マッカラム牧師が次のように書き残している。[1]
(1938年)一月九日
難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して一〇名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。
中国でお米を配る日本兵に殺到する中国のみなさん
— テリマカシ 。。 (@terimakasih0001) November 28, 2021
日本軍って奪い尽くしてたんじゃないの?
(?????) pic.twitter.com/PkOQ8Flc0P
また、この手の大人数を必要とするプロパガンダの際には、避難民の組織的な動員が行われた。[2]
おなじ手紙(注:南京安全区国際委員会のジョージ・フィッチ牧師の手紙)の十二月三十日の条によれば、この日、日本大使館では、収容所の幹部その他、約六十人の中国人をあつめて、五色旗と日の丸の旗をそれぞれ千本ずつつくり、元旦には、避難民千人以上の収容所は二十名、比較的少数の収容所は十名の代表を出して、鼓楼に集合することを命じている。当日のプログラムでは、鼓楼に五色旗が掲揚されるとともに、演説と音楽がおこなわれ、またこの旗を振って新体制を歓迎する幸せな人々がニュース映画に撮影される予定になっていたという(前同書、Ⅱ、四二頁)。それでわれわれもそのもっともらしい光景を新聞の写真や映画で見せられたわけであろう。だが、この手紙は、右の事実を述べたあとで、「ところで、市内の焼打ちはつづき、十二歳と十三歳の少女の強姦と誘拐が三件発生したとの報告が入りました。(略)」と書きそえている。
これらのツイートを行った人物は「ワイの一番の目的は画像の拡散」「ワイは議論にも論破にも興味ない」とも言っているが、議論などしたらすぐインチキがバレてしまうので、プロパガンダを鵜呑みにする思考力のないウヨを相手にひたすら拡散に努めているのだろう。
ちなみに、南京陥落から2ヶ月近く経った38年2月はじめになっても人々が日本軍への恐怖におののいていたことは、南京攻略を行った中支那派遣軍司令官松井石根(戦後東京裁判で死刑)本人が次のように日記に書いている。[3]
◇二月六日
朝八時出発汽車ニテ南京行。
沿道ノ状況凡テ著ク鎮静二赴キ、各地避難民モ漸次帰来シ、各地自治組織ノ成立シツ丶アルハ可欣モ、未タ一般ノ状勢中々容易ナラス。支那人民ノ我軍二対スル恐怖心去ラス、寒気卜家ナキ為メ帰来ノ遅ルル事固トヨリ其主因ナルモ、我軍二対スル反抗卜云フヨリモ恐怖・不安ノ念ノ去ラサル事其重要ナル原因ナルへシト察セラル。(略)
生き残った南京市民が日本軍を歓迎していたなど、よくまあ恥ずかしげもなくこんな大嘘がつけるものだ。
[1] 南京事件調査研究会 『南京事件資料集 ①アメリカ関係資料集』 青木書店 1992年 P.266
[2] 洞富雄 『決定版・南京大虐殺』 徳間書店 1982年 P.114
[3] 偕行社編 『南京戦史資料集1』 偕行社 1989年 P.38