小林よしのりは『戦争論』の中で1回だけ、自分で戦争体験者の親戚から聞き取ったという話を書いている。
この親戚氏は、戦争はまるで海外旅行のようだったと言い、多少の戦闘は経験したものの、あとは中国で美味いものばかり食っていたと、楽しげに語っている。[1]
「終戦前は 朝はブタ汁 晩はブタの煮付け 野菜の煮付けとか 食べとった」
「食糧は豊富にあった」
「さとうきび畑に入って ナマのさとうきび食べたらうまかった」
「ほし柿も よく食べとった」
…と食い物の話ばっかりする
(略)
「米をたくさん炊きすぎて 余ったのをおにぎりにして中国人にやると かわりにマントウをくれる」
「なしを5~6個くれることもある」
(略)
終戦後7カ月過ぎて 4月1日に長崎に着き 家に帰って来た時…
背中に上等の毛布をいっぱいしょって なんと丸々太って帰ってきたので 奥さんがびっくりしたらしい
まるで中国の人々となごやかに交流しながら食糧や物資を手に入れていたかのようだが、兵隊の給料でそんなことは不可能だろう。
では、彼らはどうやってそんな豊かな生活をしていたのか。
たとえば南京攻略戦に従軍した兵士たちの日記にはこんなことが書かれている。[2]
黒須忠信(上等兵・仮名)日記:
[11月22日](略)陳家鎮に午后五時到着、米味噌醤油等の取集めで多忙な位である、或は濡もち米を徴発或る者は小豆をもって来て戦地にてぼた餅を作っておいしく食べる事が出来た、味は此の上もなし、後に入浴をする事が出来て漸ようやく我にかへる、戦争も今日の様では実に面白いものである、(略)
[11月25日](略)午后四時祝塘郷に着して宿営す、(略)我等五分隊二十四名は宿舎に着く毎ごと大きな豚二頭位宛あて殺して食って居る、実に戦争なんて面白い、酒の好きなもの思ふ存分濁酒も呑む事が出来る、漸く秋の天候も此の頃は恵まれて一天の雲もなく晴れ渡り我等の心持も明朗となった。(P.346)
宮本省吾(少尉・仮名)日記:
[12月12日] 本日は出発を見合せ滞在と決定す、早朝より徴発に出掛ける、前日と違ひすばらしい獲物あり、そうめん、あづき、酒、砂糖、鶏、豚、皿、ランプ、炭あらゆる物あり正月盆同時に来た様にて兵隊は嬉しくて堪らず、晩にはぼた餅の御馳走にて陣中しかも第一線と思はれぬ朗らかさである。(P.133)
[12月24日] 滁県にて守備の説も当らず午前八時出発、滁県を後に全椒県に向ふ、風は肌に寒く行軍には良い日和である、途中雞にわとりの徴発物あり夜はしばらくぶりで雞汁を馳走になる(略)
[12月25日] 兵は馬並に野菜、豚の徴発に出掛ける、種々の御馳走を作る。(P.135)
陸軍の嘱託カメラマンとして第10軍に従軍した河野公輝氏は次のように語っている。[3]
蘇州の略奪はすさまじかった。(略)そういう金持の家では、柱をトントンたたいてみる。柱をくりぬいて銀貨がぎっしりつめてある。そいつを持ち出す。銀貨だけでなく壁の中には財宝も隠してある。もちろんそういうのもいただくわけだ。(略)
こちらは当時日本軍が占領した上海市内で警備に従事していた坂田甚蔵氏の話。[4]
「街頭に警備で立って、通りかかる支那人を呼びとめては体をさぐり、時計やドンペイ(一円銀貨)をいただいちゃう。一日歩哨に立ってドンペイ二、三枚もいただいちゃえば、その晩は支那料理の豪勢なテーブルが囲めた」
何事にも例外というのはあるので、小林の親戚氏個人の場合が実際にどうだったのかはわからない。
だが、一般的に日本軍がやっていたのは、こうした行為である。
中国で日本軍が「蝗軍」(イナゴの大群のように、通り過ぎたあとには何も残らない)と呼ばれていたのにはそれなりの理由があるのだ。
[1] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.273-275
[2] 小野賢二・藤原彰・本多勝一編 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年
[3] 森山康平 『証言・南京事件と三光作戦』 河出文庫 2007年 P.57
[4] 同 P.65