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宇都宮太郎日記に見る堤岩里虐殺事件の隠蔽過程

1919年4月15日、朝鮮独立を求める3・1運動への弾圧の過程で、日本軍による堤岩里(京畿道水原郡)虐殺事件が起きた。

もう少し詳しい経過は以下の通り。[1]

 三一運動にたいする日本の弾圧が、どれほど過酷で残虐なものであったか、その一例をみよう。

(略)

 日本側は特別検挙班を派遣し、4月2日から14日にわたって大弾圧をくわえ、(略)さらに4月15日、第20師団第79連隊の有田俊夫中尉は「騒擾の根元は堤岩里における天道教徒ならびにキリスト教徒なることを聞き」、部下11名と巡査2名をひきいて水原南西20キロの堤岩里にむかった。堤岩里には、1905年に建てられたキリスト教の小さな礼拝堂があった。

 現在の堤岩教会牧師である姜信範氏の『堤岩教会三一運動史』(1985年、邦訳は小笠原亮一ほか「三・一独立運動と堤岩里事件』1989年に所収)によると、日本軍警は「あまりにもひどい鞭打ちをくわえたことに対し謝罪しようと思ってきた」と称して、15歳以上の男子の信徒を礼拝堂にあつめ、入口を釘付けにした。1名は脱出したが、礼拝堂のなかに21名が閉じこめられた。日本軍警は石油をかけたうえ火をつけ、同時に包囲して射撃をはじめた。わらぶきの礼拝堂は、またたく間に燃えあがった。

 変を知って、閉じこめられた一人の男性と結婚してまだ2か月の新妻がかけつけた。彼女は斬首され、いま一人かけつけた婦人は射殺された。二人ともわらをかぶせて、死体を焼かれた。日本軍警は礼拝堂にちかい家からはじめて、村全体に放火し、33戸のうち、遠く離れた1戸を除いて、32戸を焼いた。さらに日本軍瞥は、約500メートル離れた村を襲い、天道教徒6名を銃殺し、死体を焼いた。

 長谷川好道朝鮮総督が原首相へだした報告(4月22日)で、「検挙班員および軍隊の行動は遺憾ながら暴戻ぼうれいにわたり、かつ放火の如きは明らかに刑事上の犯罪を構成する」と認めざるをえなかったような蛮行であった。

普通なら朝鮮各地で行われた他の虐殺事件同様、何もなかったかのように処理して済ませたのだろうが、日本側にとって大変まずいことに、早くも事件の翌日、噂を聞いたアメリカ領事館の外交官が宣教師を伴って現地を訪れ、焼け跡や死体を目撃し、また生き残った住民から何があったかについて聞き取りを行った。これがニューヨーク・タイムズやジャパン・アドバタイザー(東京で発行されていた米国系英字紙)で報道され、事件が世界に知られることとなってしまった。(事件の9日後にはイギリス領事と一緒にジャパン・アドバタイザー紙特派員も現地を調査し、続報を出している。)[2]

そこで当時の朝鮮総督長谷川好道と朝鮮軍司令官宇都宮太郎は共謀して事件の隠蔽・矮小化を図っていく。その詳細が、2007年に公開された宇都宮太郎の日記で明らかになった。

事件の真相を知った彼らはまず、虐殺や放火はしておらず、抵抗した相手を殺しただけだとして幕引きを図る。[3]

四月十八日 金 晴

(略)

 夜総督を訪ひ、丁度大島副官の復命に依り、十五日水原郡発安場付近提厳〔堤岩〕里に於ける有田中尉(12/79俊夫)の鎮圧に関する真相を聴き、帰て軍より差遣せる山本参謀の詳報に接す。即ち中尉は同村の耶蘇教徒、天道教徒三十余名、耶蘇教会堂内に集め、二、三問答の末其三十二名を殺し、同教会並に民家二十余戸を焼棄せるの真相を承知す。児島警務総長(巡査、巡査補も参加せる故)も来会、浄法寺師団長、大野参謀長、山本参謀と凝議、事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども、斯くては左らぬだに毒筆を揮ひつつある外国人等に虐殺放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益と為り、一面には鮮内の暴民を増長せしめ、且つ鎮圧に従事しつつある将卒に疑惑の念を生ぜしむるの不利あるを以て、抵抗したるを以て殺戮したるものとして、虐殺放火等は認めざることに決し、夜十二時散会す。

しかし、あまりあからさまに事実を否定するのはかえって不利と見た彼らは、「鎮圧」の過程で多少の行き過ぎはあったと認めて関係者を処分することにした。[4]

四月十九日 土 晴

 早朝総督を訪ひ、政務総監の列席を求め、提厳〔堤岩〕里事件に関する決心其理由等を述べ、総督の同意を得るや、総督府各部諸機関に於ても此件に関する答弁等は全然同一歩調に出で度き事を請求して、総督、総監の承諾を得て帰る。

 然るに午后に至り、総督より再び会ひ度しとのことに往訪せしに、今周知の事を全部否認するは却て不利なる無らん乎、其幾分は過失を認めて行政処分にても為し置くこと得策にはあらざる乎とのことに、此夜大野をして前決心を遂行し度内意にて明日往訪せんとするの意あることを内談せしめ〔し〕に、総督は矢張行政処分丈は為し置を可とする旨復命せし故、来合せたる児島中将、大野、山本等と相談中、浄法寺、内野も来会し、虐殺放火は否認し、其鎮圧の方法手段に適当ならざる所ありとして三十日間の重謹慎を命ずることに略決心、散会せしは午前一時近かりし。

四月二十日 日 晴

 午前十時、浄法寺師団長、児島憲兵〔隊〕司令官、内野第四十旅団長、大野参謀長、山本参謀を官邸に会し、堤厳〔提岩〕里事件善後策を再議し、各人の意見を徴し、其以上の決心は保留し総督と熟談決定すること〔に〕して散会、午后総督を訪ひ左の如く決定す。

虐殺、放火は飽まで否認し、唯だ鎮圧の手段方法其当を得ざりしものとして重謹慎(大隊長にて二十日、連隊長にて加罰十日、計三十日)に処すること。

見慣れたいつもの日本の風景である。

ちなみに、主犯の有田はその後軍法会議にかけられたが、判決では殺人・放火いずれも無罪となった。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14)二つの大戦』 小学館ライブラリー 1993年 P.83-84
[2] 木原悦子 『万歳事件を知っていますか』 平凡社 1989年 P.20-30
[3] 宇都宮太郎関係資料研究会編 『日本陸軍とアジア政策(3)陸軍大将宇都宮太郎日記』 岩波書店 2007年 P.245
[4] 同 P.245-246