読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

関東大震災時の虐殺が映画になったのは喜ばしいが、なぜそこで取り上げるのが福田村事件なのか。

関東大震災時に発生した、朝鮮人、中国人、一部日本人をも含む数千人が殺された大虐殺事件。

事件発生から百年後の今、ようやくこの事件をテーマとした劇映画が作られ、一般公開されることとなった。

eiga.com

このこと自体はもちろん喜ばしいことなのだが、しかし当時発生した大小無数の虐殺事件の中から、なぜ福田村事件が選ばれたのか。

福田村事件とは、当時たまたま四国から薬の行商にやってきていた集団が千葉県福田村(現在の野田市内)で朝鮮人に間違えられ、子どもも含む9名が自警団に虐殺された事件だ。つまり、殺されたのは日本人である。

関東大震災時に繰り返された虐殺事件の中では、ある意味特殊ケースと言っていい。

わざわざこうした例外的な事件を取り上げなくても、当時「普通に」朝鮮人を虐殺した事件がいくらでもあるではないか。

たとえば東京都葛飾区の旧四ツ木橋付近では、捕縛された朝鮮人約30名が自警団に虐殺されている。[1]

 たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、三〇人ぐらい殺していたね。荒川駅の南の土手だったね。(青木某(仮名)証言)

埼玉県では、東京方面から避難してきた朝鮮人や県内で拘束された朝鮮人たちが集団で護送されていく過程で自警団に何度も襲撃され、結局ほぼ皆殺しにされている。(熊谷事件、神保原事件、本庄事件など)[2]

 本庄署では、前夜(三日夜)から保護していた朝鮮人が四十三名いたが、電話で、デマにおびえた人達から出動要請があって、警官は出はらっていた。私が、警察に残って外からの電話に出ている時、警察がからっぽであることを見ていった奴がいたのだ。

(略)

 惨殺の模様は、とうてい口では言いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査では、とうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。

 子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ているまえで首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも、途中までやっちやあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後でおばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」といって、死体の目玉を出刃包刀でくりぬいているのも見た。

 当時演武場は、警察署の方からではなく、町役場の方から電灯をひいていたので、演武場の電気は警察の方からは、消すことができなかった。私は演武場の中の四十三人が見つかっては大変だからと、電気を消すように役場の方へ頼んだが、一向に通ぜず、そのうちに、演武場の中の朝鮮人も見つかってしまったのだ。「ここにいた」というわけで、群衆は演武場へおしかけ、四十三人ことごとく殺してしまった。(略)

 警察署の構内は前夜の凶行で血がいっぱいだった。長靴でなければ歩けなかったほどだ。警察署の構内で殺されたのは八十六人だが、本庄市内で殺されたのもいた筈だ。死体も見たが十五、六人位……二十人まではいなかったと思う。(新井賢二郎証言)

横浜では、中村町をはじめ市内各所で地獄のような朝鮮人狩りが繰り返された。[3]

 横浜の中村町周辺は、木賃宿が密集した町だった.木賃宿には朝鮮人労働者が多く住みつき、数百人からいたように思う。

 この近くの友人宅を訪ねていて地震にあった私は、だから、世に有名な朝鮮人虐殺の実態を、この目でつぶさに目撃することになった。二日朝から、朝鮮人が火を放って回っているという流言がとぶと、ただちに、朝鮮人狩りが始まった。

(略)

 見つけてきた朝鮮人は、警察が年令、氏名、住所を確かめて保護する間もなく、町の捜索隊にとっ捕まってしまう。ウカウカしていると警察官自身殺されかねない殺気だった雰囲気だった。そうしてグルリと朝鮮人を取り囲むと、何ひとついいわけを聞くのでもなく、問答無用とばかり、手に手に握った竹ヤリやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。それも、ひと思いにバッサリというのでなく、皆がそれぞれおっかなびっくりやるので、よけいに残酷だ。頭をこづくもの、眼に竹ヤリを突き立てるもの、耳をそぎ落とすもの、背中をたたくもの、足の甲を切り裂くもの……朝鮮人のうめきと、口々にののしり声をあげる日本人の怒号が入りまじり、この世のものとは思われない、凄惨な場面が展開した。

 こうしてなぶり殺しにした朝鮮人の死体を、倉木橋の土手っぶちに並んで立っている桜並み木の、川のほうにつきだした小枝に、つりさげる。しかも、一本や二本じゃない。三好橋から中村橋にかけて、載天記念に植樹された二百以上の木のすべての幹に、血まみれの死体をつるす。それでもまだ息のあるものは、ぶらさげたまま、さらにリンチを加える……人間のすることとは思えない地獄の刑場だった。完全に死んだ人間は、つるされたツナを切られ、川の中に落とされる。川の中は何百という死体で埋まり、昨日までの清流は真っ赤な濁流となってしまった(田畑潔証言)

これらの虐殺事件を差し置いて福田村事件が映画化されたのは、結局のところ、日本人が殺された事件だったからかろうじて映画化が可能だった、ということではないのか。

日本で朝鮮人虐殺をストレートに朝鮮人虐殺として描いた映画が作れるようになるのは、果たしていつになるのだろうか。

[1] 山田昭次 『関東大震災時の朝鮮人虐殺』 創史社 2003年 P.201
[2] 関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会 『かくされていた歴史 ― 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』 1974年 P.98-100
[3] 「日本人100人の証言と告白」 潮 1971年9月特大号 P.98-100