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力士はなぜ裸同然の格好で相撲をとるのか

■ 力士はなぜ裸体なのか、という疑問

子どもの頃から、テレビで大相撲を見ていて疑問だったことがある。なぜ力士は、廻まわしを締めただけの裸体のうえに髷(まげ)という珍妙な恰好で相撲を取るのか、という疑問だ。髷は江戸時代までは身分を問わず男子の普通の髪型だったからまあいいとして、問題は尻丸出しの廻しである。

相撲に類似した近隣諸国の競技を見ても、このような裸同然の恰好で対戦するものはない。

日本の相撲に最も近いのはモンゴルの「ブフ」だろうが、地域によって違いはあるものの、ベスト状の上着とパンツ(または装飾のついたズボン)を着用し、裸足ではなくブーツを履いている。韓国の「シルム」は上半身裸に裸足だが、やはり臀部を覆うパンツを着用している。また、シルムのこのようなスタイルは日本による植民地化以降のもので、それ以前は普通に服を着て対戦していた。

■ 裸体は降伏儀礼の名残り

この疑問への答えは、相撲の伝統というと必ず持ち出される平安時代の「相撲節(すまいのせち)」にあった[1]。

 毎年七月、天皇は紫宸殿の庭や神泉苑において相撲を見た。
 これにさきだって部領使(ことりづかい)というものが任命され、七道の諸国にそれぞれくだって、膂力すぐれた若者をおおぜい召し連れてきた。地方長官である国司には、領民のうちから相撲上手を捜して貢としてさしだす義務が課せられていた。部領使は六十余州をくまなくめぐったすえ、遅くも六月二十日までには京に帰らねばならなかった。
(略)
 相撲節にさきだつ数日まえ、内裏に召し出された力士たちはおのおの出身地にしたがって左方、右方にわかれ、内取りということをおこなった。平安京の入口である逢坂の関を境にして東三十三ヵ国からきたものが左、西三十三ヵ国よりのぼったものは右とされた。この場合の左右とは、南面して建てられている宮門より見ての方位である。(略)
 土俵はまだ存在していない。左近の桜、右近の橘の植えられている南のあたりが、おおよそのところ相撲場だった。
 当日、親王や公卿をしたがえた天皇が紫宸殿のうちに着座すると、左右にわかれた力士はひとりずつ呼びだされた。かれらは烏帽子をかぶって狩衣をまとい、剣を佩いた戦士の姿であった。だが狩衣の下は袴も下着もつけず、素裸にフンドシを締めこんでいるのみで、もちろん跣はだしである。方屋かたやと呼ばれる支度部屋を出ると、おのれの珍妙な恰好に恥じ入るごとく大きな体をちぢめがちに列席の朝臣たちのあいだを歩き、相撲場にいたった。そこでは狩衣と剣をもはずしてフンドシひとつとなり、相手方と対戦させられた。
 くだくだしい説明をするまでもなく、これは明らかに降伏と武装解除を暗示するシンボリックな儀礼なのである。(略)天皇政権による日本全土の征服のプロセスが、演劇的にくりかえされている。
(略)
 あわせて二十番の取組みがすみ、夜に入ると力士たちを遠ざけ、親王、公卿に酒食がだされた。近衛府が兵楽を奏し、文人に命じて詩を作らせた。戦勝の宴を「擬制」するものであるのはことわるにも及ぶまい。
 高倉天皇にいたって、源平の争乱がおこり、とっくに実質を失っていた皇室による軍事支配がもはや幻想の上ですらも維持できなくなったとき、相撲節も存続の根拠をなくして廃絶した。

素裸に廻し(フンドシ)のみという力士のスタイルは、近畿天皇家に征服された「まつろわぬ民」たちの降伏の場面を象徴的に再現したものだったわけだ。

■ 「ROME」の降伏場面を思い出す

この話を読んでいて、ふと、HBO・BBC共同制作の歴史ドラマ「ROME」で、ガリア人の王ウェルキンゲトリクスがカエサルに降伏する場面を思い出した。ウェルキンゲトリクスは剣を投げ出した後、衣服を剥ぎ取られて全裸にされ、跪いてローマ軍団の象徴である黄金の鷲に接吻することを強いられる。

この場面がどの程度史実に基づいているのかは不明だが、投降者を裸にするというのは、完全な武装解除という意味で、服属儀礼には実にふさわしい。

そう考えると、力士たちのあの姿からは、なんとも言えない哀愁が感じられてならない。

[1] 宮本徳蔵 『力士漂泊 相撲のアルケオロジー』 講談社学芸文庫 2009年 P.31-37

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