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福島で置き去りにされた動物たちの悲劇

いま東京新聞で、写真家豊田直巳氏が原発事故後の福島を取材した記録「ふくしまの10年・行ける所までとにかく行こう」が連載されている。

3月13日、豊田氏らは無人となった双葉厚生病院を訪れているが、恐ろしいことに、ここでは毎時1,000 μSvまで計測できる線量計が振り切れてしまったという。仮に1,000 μSvちょうどだったとしても、わずか1時間で一般人の年間被曝上限1mSvに達し、数時間いれば原発労働者がガンを発症した場合に労災認定される被曝線量5mSvに達してしまう。

ちなみに、日本の自然放射線量は平均で毎時0.1 μSv程度なので、実に日常の1万倍以上の線量だ。

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 東京電力福島第一原発の北西わずか四キロ。汚染は役場周辺もひどかったが、ここもひどかった。高精度の線量計は常時振り切れ、使い物にならなかった。毎時一〇〇マイクロシーベルトまで測定できる仲間の線量計も振り切った。イラクなどで使ってきたやや旧式の線量計を取り出した。精度はいまひとつだが毎時一〇〇〇マイクロシーベルト(一ミリシーベルト)まで測定可能。だが、こちらも振り切った。

 どこまで高線量なのかもはや知るすべがない。思わず「信じられない。怖い…」と口走ったという。こんな場所に一時間もいれば、確実に一般人の年間被ばく線量限度(一ミリシーベルト)を突破してしまう。長居はできない。

この豊田氏の取材記録の中で特に気になったのが、被災地に取り残されてしまった動物たちの話だ。

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 二〇一一年四月一日、浪江町請戸(うけど)地区で、津波被害を取材した写真家の豊田直巳さん(63)は、人間と離れた動物たちと出くわした。

(略)

 本紙が避難した町民から聞いた話では、山側にある津島地区への一次避難までは、車でペットと一緒に逃げた人が多かった。しかし、バスで二本松市に二次避難する際、ペットは置いていくしかなかった。残された犬たちは群れをなし、住んでいた町に向かって戻っていったという。

 津波のがれき周りではウシの群れと出くわした。黒い肉牛で、子牛もいる。ノソノソと寄ってきたので、戦地取材を経験してきた豊田さんも少し怖かった。

犬や猫たちはそれでも、ボランティアによって救出された子たちがある程度はいたと聞く。しかし、牛や豚はどうにもならない。逃げたり放されたりして野生化した家畜は、結局捕獲されて殺処分されてしまった。

最も悲惨だったのは、牛舎に閉じ込められたまま餓死していった牛たちだ。豊田氏らが見たのは4月18日、南相馬市内の牛舎の状況だ。

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 予想はしていたものの、牛舎内で直面したのは、衝撃的な光景だった。

 死んでいたのは一頭や二頭ではない。五十頭ほどいただろうか。乳牛が牛舎のあちこちでやせこけて横たわっていた。大きな目が乾き、まもなく命が尽きようとしているウシもいた。食べ物を探したのだろう。カセットテープか何か細いテープを引き出してはんでいた。

 つらかったのは、子ウシが死んだ親ウシを揺り動かそうというのか、ぺろぺろなめ続ける姿だった。穴に落ち、動けなくなった子ウシもいた。

 「何もしてあげられることがない。子ウシといっても、穴から引き上げられそうにない。おりを開けて放したところで助かりそうにない…」

 豊田さんは自らの無力さに打ちのめされた。

 畜産農家にしても、大切に育ててきたウシたちを置いて避難するしかなかったのだろう。原発事故は、そんな厳しい選択を迫った。やり場のない怒りと悲しさが込み上げてきた。

牛舎で死んでいった牛たちについては、写真家野田雅也氏も「fotgazet」というウェブマガジンでレポートしている。日付と場所が一致するので、野田氏は豊田氏に同行していて、同じ場面を目撃したのだろう。

まだ命ある牛もいた。立ち上がることができずに糞尿を垂れ流していたが、力を振りしぼり、私を振り返った。そして「モー、ホー」とかすかに鳴いた。助けをもとめる声に聞こえたが、人間への怨恨の声だったのかも知れない。(4月18日 南相馬市小高区 原発から約18km地点)

顎を引いて大きく息を吸いこむ。これが最後の呼吸。牛の集団死に直面し、私は人間を恥じた。(4月18日 南相馬市小高区 原発から約18km地点)

人間社会の中で暮らすペットや家畜たちは、生も死も人間のなすがままに振り回される。であればこそ、人間は彼らの命に最後まで責任を持たなければならない。命に対してこれほど残酷な結末を強いる原発は、その存在自体が罪なのだと言わざるを得ない。

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