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現実の世界では鬼の側が刃を振るって罪なき人々の首を斬っていたことくらいは知っておいたほうがいい

『鬼滅の刃』では、鬼殺隊の剣士たちがさまざまな技を繰り出して鬼の首を斬っている。鬼を殺すには、日光に晒すか、太陽の力が宿る特別な日本刀である「日輪刀」で首を斬り落とすしかない、という設定だからだ。

この作品で描かれた戦いの様相が、日中戦争で現実に行われた殺戮行為とは真逆になっているのは、ある意味興味深いことだと言える。

明治の廃刀令以降、行き場を失っていた日本刀が、恐らく有史以来最大と言える活躍の場を見出したのが、日中戦争だった。

この戦争に従軍した刀剣修理家の成瀬関次氏が、次のように書いている。[1][2]

 今、全國に殘ってゐる昔鍛の日本刀はどの位あるか。推定四百萬振といふのである。

(略)

 右の内の約六七割までは、新刀新々刀といはるる刀であって、大阪夏冬の陣前後から以降の作刀である。徳川時代から、明治大正にかけては、大量の日本刀を戦陣に於て試みるやうな機曾はなかった。

 日清日露の兩役にしても、今次の事變に比較して見ると、物の數でもなく、彼の天草の亂、戊辰戦争、西南の役にしてからが、量的にはさう大したものでは無かつた。

 支那が今度の事變で日本刀の偉力を満喫したのは、歴史あって以来の事であらうし、日本としても、日本刀の偉力を發揮した事また歴史あつて以來の事であらう。

では、日中戦争において、日本刀はどのように「活躍」したのか。

戦場で向かって来る敵兵を斬ったのではない。近代戦の戦場では、日本刀など火器はもちろん銃剣にすら勝てないからだ。日中戦争で実際に三十数名を斬った鵜野晋太郎氏が次のように書いている。[3]

 (略)噂では、藤井は軍刀で50人以上、一説では100人以上斬っていると言われていた。私より2年先輩の昭和13年入隊、身長1メートル70、痩せぎす面長の、口数の少い、それでいてどことなくさっぱりした粋いきな男であった。(略)彼との交わりは半年に満たなかったが、彼の“殺人訓”を要約すると、次のようになる……

(略)

 藤井は差し料を引き抜いて切先の部分を指さした。――「スーと細い擦った線が沢山見えるでしょう。首を斬った時につく頸骨が擦れた跡です。だからこの一本一本の線を数えれば何人斬ったか判りますよ。しかし将校さん方から時々、白兵戦で何人も何人も斬ったと言う話が流れるが信じませんね。……そうでしょう。刀ほど危ないものはないですよ。一対一でも着剣小銃手と闘っても勝てないですよ。……まして一対二なら一辺ですよ。ツンゴピン(中国兵)が本気になったら怖いですよ。だから私は、据え物で何十人斬ったと言うのなら信じますがねえ……(略)だから軍刀の武勇伝と言うのは嘘ですな……」

日中戦争での実際の日本刀の用途は、ほとんどの場合、この「藤井」が言っている通りの据え物斬り、つまり捕縛されて抵抗できない状態の捕虜や農民の首を斬ったものだろう。例えば、南京大虐殺時の「百人斬り」で名を馳せた野田少尉が、郷里の小学校で行った講演で次のように告白している。[4]

 さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。

「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆ほとんどだ……

 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」

(略)

「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。これは竹内好さんや安藤彦太郎さんたちのいう“兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。

また、鵜野氏自身も、自ら手を下して農民9人の首を斬った経験についてこう書いている。[5]

 私は常用の貞光(注:昭和新刀)を引き抜くと、一息入れてくるりと剣背(峰、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。

“ドスッ”と鈍い手応えと同時に、噴水の如く二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無残。漂よう血の匂い。……つづいて私は次の四十がらみの村幹部の後方に廻った。

(先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)

 目釘は異状ないが、刀身は僅かに曲りが出たようだ。

(大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ。)

 次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。

(失敗だ! 落着け!)

 私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。

「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」

 私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から四〇センチの所に膝をあてがい、右に約五度曲ったのを両手でぐいと元にもどしたが、僅かな曲りは残った。

(エイッ、あとの五人を殺らなくちゃ)

 そのとき、聞き覚えのある不気味な歌――「抗日歌」を、五人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。

(略)

 そのとき五人の斉唱は止んでいたが、悲痛な泣き声は続いていた。私は一段と兇暴に刀をふるって斬った。目釘は更に湾曲して緩み、鍔元がガタガタになって来た上、再び刀身の四〇センチまでが右五度に曲った。そのため二人斬首して曲りを直し、また二人斬っては直して、ようやく最後の九人目の首を斬り落した。首を完全に落したのは一番目と九番目だけであった。

 血の匂いは暫らく消えなかった。鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。

当時、中国大陸のあちこちで、こうした行為が何度となく繰り返された。

まさに、鬼畜の所業と言うしかない。

実際、日本軍は住民たちから「東洋鬼」「日本鬼子」と呼ばれていたが、これは実態を表した正当な呼び名だろう。

一方、日本軍の将兵たちは、中国人は刀で首を斬られると二度と生まれ変わることができないと信じているからひどく日本刀を恐れるのだ、などと言って嘲っていた。[6]

 支那人は、刀刃に断ち切られて死んだ者は、再び人間に生れぬといふ迷信をもつてゐる。いかな抗日教育でも、この迷信の打破だけは出来なかった程に根強い。それだけにまた日本刀の効果も多いわけである。

太陽を象徴する日の丸の旗を掲げながら、罪なき人々の首を斬る「日本鬼子」たち。

日中戦争の現実では、鬼滅で描かれた物語とは真逆に、鬼たちの側が刃を振るい、犠牲者たちを嘲笑しながらその首を斬りまくっていたのだ。

[1] 成瀬関次 『戦ふ日本刀』 実業之日本社 1940年 P.41
[2] 同 P.27
[3] 鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」/本多勝一編 『ペンの陰謀』 潮出版社 1977年 P.379-380
[4] 志々目彰 『日中戦争の追憶 “百人斬り競争”』 月刊中国 1971年12月号
[5] 鵜野 P.386-387
[6] 成瀬 P.43

 

中国の旅 (朝日文庫)

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