前回記事で取り上げた映画『ONODA』のアルチュール・アラリ監督に、「地球の歩き方」がカンヌでインタビューを行っている。しかし、予告編を見ても、このインタビュー記事[1]を読んでも、アラリ監督が小野田寛郎の実像を理解していたとはとても思えない。
アラリ監督によると、この映画を撮ろうと思ったきっかけは、父親から小野田の話を聞いたことだという。
──同作を撮ろうと思ったきっかけは?
自分の父親と話していたときに思いつきました。もともとは冒険映画を撮りたいと思っていて、ロバート・ルイス・スティーヴンソンやジョゼフ・コンラッドの小説を読みながらテーマを探していました。(略)そのことを父と話していたら、父から「私が24歳のときに、戦後も約30年間戦争を続けていた日本の兵士が帰ってきたことがあった」という話を聞かされ、一気に心が動かされました。
そして、小野田の自伝を読んで魅了され、その内容を事実だと考えて映画を撮っていった。
小野田さんの本を読みながら、これはすごく強いシーンになるだろうなという箇所をリストアップしていったのが2013~2014年にかけて。撮影を始めたのは2018年です。撮影までには4~5年かかっています。(略)
(略)
そもそも小野田さんの話は、豊かな出来事に満ちあふれています。(略)小野田さんの話は神話のようですが、同時に本当の話です。本当にはあり得ないけれど、しかし実際の話というところが自分のなかですごく重要でした。
(略)小野田さんの体験は、フィクションではない実際のことです。だから、小野田さんとともにその場にいて、小野田さんに指先で触れるような形でこの映画を撮りたいと思いました。現実に根差すけれど、現実に忠実ではないというバランスが、神話のようだけれど本当にあった話を表現する上での方法論でした。
しかし残念ながら、自伝に書かれているのは「本当の話」ではない。小野田が敗戦を知らないまま戦い続けていたというのも嘘なら、島民に対する加害行為も、重大な事件はすべて欠落している。
──小野田さんの描き方について気をつけたことは?
(略)
小野田さんはフィリピンで、実際に人々に危害を加えたことがありました。小野田さんは頭のいい人でしたから、無自覚に暴力を働いているわけではありません。しかし、小野田さんは自分は戦争のなかにいると思っていますから、敵を殺めることができます。自分の仲間でさえも、裏切るようなことがあれば、殺めることができます。
物語が進んでいくなかで、見ている人たちが単純に小野田さんに感情移入して、彼の視点で物事が進んでいくのではなく、一歩横に退いて小野田さんを見つめられるようにしたかった。そのため脚本の初稿を直す上で、小野田さんの暴力シーンをもう少し強調しました。例えば、島民の人が傷ついている様子を加えることで、表現できるのかもしれない。そういうことを経て、いまの形になっています。
小野田手記にも一応、島民に危害を加える場面は出てくる。しかし、たとえ島民を狙って銃撃する場合でも、手記ではそれはあくまで「敵」との「戦い」ということにされている。[2]
島民といえば、彼らは米軍が上陸すると同時に敵側につき、討伐隊の道案内をつとめたばかりか、日本兵が私たち四人だけになると、山にどしどし入ってきて、伐採をはじめた。彼らは腰に蛮刀をさし、その中の一人は必ず銃を持っている。私たちにとっては討伐隊以上に油断のならない存在であった。
彼らの姿を見つけたり、けはいを感じたらすばやく茂みに身をひそめ、銃を腰に構えて、やりすごした。が、いくら用心しても、こちらの姿を確認されてしまうことがある。そのときは躊躇せず射撃することにしていた。そしてただちに移動した。討伐隊に通報されるにちがいないからであった。
実際には、島民が「山にどしどし入って」きたのは、戦争が終わったので以前のように自分たちの山で果実採取や伐採をしていただけだし、銃を持っていたのは危険な残留日本兵から身を守る護身用だった。小野田らはそんな島民たちを「懲らしめのために撃ち殺してやった」り[3]、逆恨みから惨殺したり[4]していたのだ。
「その犬をドンコー(注:島民を指す侮蔑語)の奴ら、われわれにけしかけやがるんです。あんまり癩にさわったんで仕返ししてやったことがある」と寛郎が口を挿んだ。
「どんな仕返しをしたんです?」
「ある村の副村長が何度もけしかけやがったから、そいつを三日間つけねらって、一人になったところをぶっ殺してやった」
(略)
「まず膝をねらって一発射ち、歩けないようにしておいてボロ(蛮刀)でたたっ斬ってやった。その野郎、腕で顔をかばいながらいざって逃げようとしたが、こっちは日頃の恨みで容赦しねえ……」
寛郎は左腕を曲げて顔をかばう島民の真似をし、その次にボロを何度も振りおろすジェスチャーをして見せた。事実なら、まさに惨殺である。初夏の陽が明るい応接室に居ながら、背筋が寒くなったのを私は覚えている。
小野田たちが潜伏中に30名もの島民を殺したことは英語でもニュースになっていた[5]ので、アラリ監督も知っていたかもしれない。しかし、自伝のような小野田の自己弁護を前提にしていたら、こんな凄惨な「暴力シーン」は想像できなかっただろう。
アラリ監督は、陰謀論やフェイクニュースに流されず、「もっと普遍的な何か、人間性というものに触れたい」という認識でこの映画を作ったという。しかしその映画の中身がほぼフェイクというのでは、皮肉というほかない。
──小野田さんのことを現代で語る意味はどこにありますか?
現在とつながり、反応する部分はもちろんあります。何か自分たちが信じるものに対して全身を捧げたために、それが彼らをひとつの世界に閉じ込めてしまうことがあります。孤独というのも人類が抱えている永遠のテーマです。また陰謀論みたいなもの、フェイクニュースや、誰かが世界を操っているのではないかという見えない何かに対する恐怖が、想像力によって生まれてしまうという状況は、現在ともつながります。しかし今回のモチベーションは、もっと普遍的な何か、人間性というものに触れたいという点でした。
ちなみに、仮にこれが「フィリピンのジャングルで戦い続けた日本兵の話」ではなく、「フランスのどこかの山にこもって戦い続けたドイツ兵の話」だったとしたら、監督はそれを信じただろうか。ナチスドイツの兵士が、敗戦を信じず、第三帝国への熱烈な忠誠心から、30年も山の中で、周囲の村人から物資を「徴発」しながら「戦争」を続けた、などという話を信じただろうか。
ヨーロッパ人のドイツ兵だったらあり得ないが、監督自身が「あまり知っているとは言えません」という東洋の国日本の兵士ならそんな「神話のよう」なこともあり得たと思ったのなら、それは一種のオリエンタリズムだろう。
[1] 守隨亨延 『『ONODA』アルチュール・アラリ監督にカンヌでインタビュー、終戦後30年間戦い続けた旧日本兵の物語』 地球の歩き方 2021/7/19
[2] 小野田寛郎 『わがルバン島の30年戦争』 日本図書センター 1999年(小野田手記の再版本)P.95-96
[3] 津田信 『幻想の英雄 ― 小野田少尉との三ヵ月』 図書出版社 1977年 P.81
[4] 津田 P.171
[5] “Japan WW2 soldier who refused to surrender Hiroo Onoda dies” BBC News, 2014/1/17
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