『この世界の片隅に』に続いて、完全に「国民的マンガ・アニメ」の地位を確立したと言える『鬼滅の刃』。
しかしこの作品も、ナショナリズムを煽っているとまでは言えないまでも、その設定・構成にはかなり危ういものを感じさせる。
読んでみてまず最初に引っかかったのは、マンガ版のラストだ。
最終決戦で鬼舞辻無惨を倒し、鬼たちを滅ぼしたことによって、この世界はようやく「人を喰う鬼がいない世界になった」とされる。そして「ただひたすら平和な 何の変哲もない日常が いつまでもいつまでも続きますように」という願いが語られる。(第204話「鬼のいない世界」)
続く最終話である「幾星霜を煌めく命」では、時代は一気に現代に飛び、炭治郎や禰豆子、善逸や伊之助の子孫たちが平和で微笑ましい日常を送る姿が描かれる。
つまり、この物語の世界では、鬼殺隊の剣士たちが命がけで鬼と戦って手にした平和が、そのまま現代まで続いているのだ。
しかし、炭治郎の時代って、大正時代だよ。
大正時代のいつ頃だったかまでは明らかにされていないが、大正末には関東大震災と朝鮮人虐殺があり、そして昭和に入れば日中戦争とアジア太平洋戦争で日本は焼け野原となり、300万人が死んだ。
何より、その日本が仕掛けた戦争によって、中国をはじめとするアジアでは少なくとも2000万人が殺された。
平和どころではないし、この物語の中で鬼が行ってきた悪など、およそ比較にもならない。そんな地獄のような時代の現実が、あっさり無視されている。
フィクションなんだから現実の歴史など関係ないと思うかもしれないが、そうではない。
現実の歴史と関係ないのなら、何しろ異能の剣士たちが鬼と戦うという荒唐無稽な物語なのだから、舞台設定はどこでもよかったはずだ。遠い過去でも未来でも、何なら異世界でもいい。
しかし、そうした舞台設定だったとしたら、果たしてこの物語はこれほどの人気を集めただろうか。
この国の、およそ100年ほど前という、今を生きる自分たちとの命のつながりを感じられる程度の過去を舞台とした物語だからこそ、これほどの共感と感動を呼び起こしたのだろう。
実際、最終話の中でも、ひいおじいちゃん(我妻善逸)の活躍を記した書物を読んで、ひ孫の少年が涙を流して感動している。
強大な悪と命がけで戦い、膨大な犠牲を払いながら平和を勝ち取ったご先祖さまたち。その命と想いを受け継ぎ、懸命に今を生きる自分たち。無垢にして誇らしい(架空の)歴史。
こんな物語に素直に浸っていられたら、実に気持ちがいいことだろう。
現実の近現代史を無視できればの話だが。