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内田樹氏の「象徴的行為」解釈が変

話の本筋とは関係ないので前回記事では取り上げなかったが、内田樹氏は「私が天皇主義者になったわけ」の中で、「象徴的行為」という言葉について妙なことを言っている[1]。

内田 昨年のお言葉は天皇制の歴史の中でも画期的なものだったと思います。日本国憲法の公布から70年が経ちましたが、今の陛下は皇太子時代から日本国憲法下の象徴天皇とはいかなる存在で、何を果たすべきかについて考え続けてこられました。その年来の思索をにじませた重い「お言葉」だったと私は受け止めています。

 「お言葉」の中では、「象徴」という言葉が8回使われました。特に印象的だったのは、「象徴的行為」という言葉です。よく考えると、これは論理的には矛盾した言葉です。象徴とは記号的にそこにあるだけで機能するものであって、それを裏付ける実践は要求されない。しかし、陛下は形容矛盾をあえて犯すことで、象徴天皇にはそのために果たすべき「象徴的行為」があるという新しい天皇制解釈に踏み込んだ。その象徴的行為とは「鎮魂」と「慰藉」です。

「象徴的行為」とは、「象徴であることを裏付ける実践」などではない。

これは、その行為自体が時代の変化や重要な理念を象徴するものとなる行為のことだ。この言葉を聞いてすぐに思い浮かぶのは、例えば1970年、ポーランド訪問中の旧西ドイツのヴィリー・ブラント首相(当時)が、ワルシャワのゲットー英雄記念碑前で突然跪き、黙祷した行為だろう。

ナチスによってユダヤ人への激しい迫害が行われたその場所で戦後ドイツの首相が行ったこの行為は、ドイツ国家の過去の過ちを謝罪し、和解を求める意志の象徴として、多くの人々の胸に刻まれた。

もちろん内田氏もこのことはよくご存知のはずだ。

哲学者・思想家という割には、言葉というものの扱いが雑すぎるのではないか。

[1] 内田樹 『私が天皇主義者になったわけ』 月刊日本 2017/5/2

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