「僕の曾祖父の祖父」がインパール作戦で艦砲射撃w
このウヨ氏によると、自分の「曾祖父の祖父」が、インパール作戦の際に巡洋艦から艦砲射撃を行ったという。
さんざん突っ込まれているこれ、140字のなかに、きっちり「乗組員は血が出るほど唇を噛み号泣しながら!」という物語のヤマ場をもりこんでくるのも、嘘つきのテクニックなんですね pic.twitter.com/MbNVpMUjK0
— 早川タダノリ (@hayakawa2600) February 9, 2021
僕の曾祖父の祖父(元大日本帝國海軍士官)は、インパール作戦の上陸部隊の中隊長から、「我ら英国軍1個師団と交戦中支援火砲乞う敵味方の区別無用」との連絡で、巡洋艦他7隻で一斉艦砲射撃を行ったそうです。乗組員は血が出るほど唇を噛み号泣しながら!それが無駄な死ですか?
当然この妄想ツイート(元ツイは既に削除されているが、魚拓が残っている)は全方向から突っ込まれているが、一応整理してみると次のようになる。
- 年齢が合わない
仮にこのウヨ氏が2000年生まれ(まだ20歳前後の若者)だとして、代々親が25歳頃にその子が生まれたという早めの世代交代を仮定しても、5代前の「曾祖父の祖父」の生年は125年前の1875年、インパール作戦(1944年)時の年齢は69歳となる。
70歳近い海軍士官というのは、ちょっと年齢的に無理だろう。 - 艦砲が届かない
インパール作戦は上陸作戦どころかビルマ奥地での山岳戦で、海岸から戦地までは直線距離で350Km以上も離れていた。巡洋艦どころか当時世界一を誇った戦艦大和の主砲(射程距離42Km)でさえ全然届かない。
画像出典:Google Map
- 陸軍の中隊長から海軍に直接支援要請などできない
交戦中の陸軍中隊長から巡洋艦上の海軍士官に直接支援要請をするなど、指揮命令系統を考えれば不可能だし、だいたい連絡しようにもそんな手段はない。それ以前に、そもそもインパール作戦に海軍は参加していない。
というわけで、事実を捻じ曲げようとするこのウヨ氏こそがインパール作戦で無用の死を強いられた犠牲者たちを侮辱していることは明白だろう。
僕の祖父はインパールで戦病死しました。https://t.co/GnfLSMfjdK
— 伊丹和弘@マリサポ兼記者 (@itami_k) February 9, 2021
インパール作戦で艦砲射撃って。。。もっとも近いベンガル湾で350キロも離れている。東京から撃ったら琵琶湖を超す距離だよ。あれが、そんな嘘までついて誇る作戦かい? 僕の祖父らは無駄死にさせられた。それが史実なのですよ。 https://t.co/BSm618g0Nr
見てきたような嘘をつくのは右翼の伝統芸
ところで、元ツイの「乗組員は血が出るほど唇を噛み号泣しながら!」という一節を読んで、こういうの前にも見たな、と思い出したのが鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』の次の一節だ。[1]
この部隊が上陸の際に、ちょっとしたエピソードが伝えられている。第三師団の先発梯団が本船から呉淞桟橋に上陸しようとしたとき、桟橋の上には、日本の愛国婦人会のような恰好をした多数の女性が、手に手に日の丸の小旗を持って迎えたというのである。兵士たちは安心して、次々に桟橋に降り立ったが、それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちにして消え、次に展開されたのは、中国軍による凄まじい一斉射撃であった。不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった。指揮官の顔は一瞬土気色に変り、口惜しさに唇は噛みしめられて、血をにじませていた。
このことは、日本軍の胸に、中国軍に対する根強い不信の念となって刻みこまれることになった。俗にいえば「畜生、やりやがったな」という感情である。このエピソードは後の部隊にも「教訓」として語り継がれ、長く憎悪の対象となったようである。
これは南京戦に先立つ第二次上海事変(1937年8月)における呉淞ウースン上陸作戦でのエピソードなのだが、大嘘である。呉淞上陸作戦は危険を知らずにのんびり上陸した日本軍が騙し討ちの奇襲を受けた、などというものではなく、強固な陣地を構築して待ち構える中国正規軍に真正面から殴り込みをかけた強行上陸だったからだ。
この嘘エピソードは、その後の南京攻略戦で多少の残虐行為があったとしても仕方がないな、と読者に思わせるために使われている点で、特に悪質だ。
ちなみに、小林よしのりも『戦争論』でこの話を中国軍を悪魔化するために利用している。
鈴木明は末端のネトウヨなどではなく、多数の著書を持つ「ジャーナリスト」である。しかも『「南京大虐殺」のまぼろし』は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど高く評価され、日本人の歴史認識に多大な悪影響を与えた。
こんなふうに見てきたような嘘をついて人を騙そうとするのは、日本の右翼の伝統芸なのだ。
[1] 鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋 1973年 P.156